作家論/作家紹介

中井 英夫『見知らぬ旗』(河出書房新社)、『中井英夫戦中日記 彼方より 完全版』(河出書房新社)

  • 2020/08/15

中井英夫の負記号の宇宙感覚

大量死と共同体の没落 マクロな出来事をミクロな次元で予知する

かねがね私は、中井英夫氏にはカタクリズム嗜好とでも言いたいような一種負記号の宇宙感覚があるのではないか、と考えていた。それは、眼に見えない無数の偶然の糸が錯雑と織りなす巨大な禍いの網がついにこの地上をすっぽりと包み込む日の宿命を、そのマクロコスミックな出来事とは比較を絶してささやかで繊弱な肉体がミクロコスモスの次元で正確に予知するという意味での超能力と解して頂いてもいい。むろんその顕微鏡的に極微の感覚のふるえを捉えるオッシログラフの内的精密さは、外見のむごたらしさやぶざまな滑稽とは似ても似つかない船の難破をいち早く察して、いずれ見込みのない海中にぞろぞろと這い出していく鼠の大群や、「チャンドス卿への手紙」の地下室の毒死する鼠の断末魔をここで思い起していただいてもいい。鼠がその無力卑小なむごたらしさのなかで空しく悪あがきするだけ。迫りつつある大災害、大異変、大洪水、大火災の完璧な戦慄はいよいよくっきりとした輪郭の下に隠れていた素顔を露わにするのである。

『虚無への供物』の読者なら、あの小説が二重橋圧死事件、第五福竜丸の死の灰、とりわけ洞爺丸顚覆事件といった三面記事的カタクリズムへの舌なめずりするような報告で幕を切って落していたことをまだ生々しく記憶しているにちがいない。この第一短編集『見知らぬ旗』に集められたほとんどの作品も、小は一個の毒殺死体に象徴される家族の崩壊(「黒塚」)から大は宇宙的変異(「日蝕の子ら」)にいたるまで、ヘレニズム時代の蛮族襲来の予言(「かつてアルカディアに」)からSF的な幻覚にいたるまで、かならず大量死とある共同体の没落に裏づけられている。

こうした一切を戦中世代通有の強迫観念と片づけてしまうのはたやすい。しかしたとえば戦争を真正面から戦記物として書くことと、戦中のささやかな日常の一駒を捉えてその無垢な意味のなさのなかにかえって世界戦争の非常な力を鮮明に浮び上らせる営みとの間に、一体誰が甲乙をつけられようか。ほとんど同時に刊行された『彼方より』の戦中日記のなかには、日常のまどろみのなかにたゆとうていた一人の青年がふいに彼が属していた世界の死を宣告されて、無意味な現在に投げ出された怖ろしい震撼が呪詛とともに語られている。

もはや、いっさいの伝へるべき日本の愛は失せ果てねばならぬ。いっさいの、見知らぬ、そこいらに無数に輝いてゐた小さな幸福、小さい愛情、それらは飛散した。(八月九日)

これは呪詛だろうか、それとも没落した小さなものへの挽歌だろうか。敗戦直前のこの夜、おそらく中井氏の黄金時代は隠されていた暗黒時代を孵し、しかもその暗黒時代のなかに黄金時代がのみ込まれてしまったのであろう。旧作「黒鳥譚」は無垢な青年の幸福が金貨となって黒鳥のグロテスクな体内に埋葬されてしまう現代の寓話を見事に語っていた。すなわち一人の幸福な王子は死に、あとには隠された黄金時代を喚び起すために倒錯とイロニーの限りをつくしてカタクリズムの暗黒に舌なめずりする恥多い小説家が生れたのであった。

しかし、カタクリズムを描くべくおびえつつこれを予知する「小さな幸福」との対比を方法とするだけに、中井氏の小説には細部への執心、ある種のトリヴィアリズムが不可欠である。戦後風景の細部を捉えた「時間の罠」や一見さり気なく戦中の日常を叙した「見知らぬ旗」の正調がその意味で成功し、高度成長以後ののっぺら棒となった環境を舞台として無性格な nobody を書くアンチ・ロマン好みの「かつてアルカディアに」や「銃器店へ」が悪戦を強いられているのはそのためである。

見知らぬ旗 / 中井 英夫
見知らぬ旗
  • 著者:中井 英夫
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(263ページ)
  • 発売日:1971-08-15
内容紹介:
収録作品:日蝕の子ら,見知らぬ旗,黒塚,時間の罠,かつてアルカディアに,銃器店へ,禿鷹

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

【文庫版】
中井英夫全集〈2〉黒鳥譚 / 中井 英夫
中井英夫全集〈2〉黒鳥譚
  • 著者:中井 英夫
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:文庫(814ページ)
  • 発売日:1998-12-01
  • ISBN-10:4488070248
  • ISBN-13:978-4488070243
内容紹介:
転々と居を移しながらそのたび黒鳥館と名づけ、心に黒鳥館主人を称した中井英夫にとって黒鳥とは何の謂だったか、果たして訣別は成ったのか――。二十年余の歳月をかけた「黒鳥譚」のほか、初期短篇「皮」「蠅の経歴」「燕の記憶」「青髯公の城」、短篇集『見知らぬ旗』『黒鳥の囁き』、連作長篇『人形たちの夜』を収録。解説=小笠原賢二

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

中井英夫戦中日記 彼方より 完全版 / 中井 英夫,本多 正一
中井英夫戦中日記 彼方より 完全版
  • 著者:中井 英夫,本多 正一
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(286ページ)
  • 発売日:2005-06-18
  • ISBN-10:4309017150
  • ISBN-13:978-4309017150
内容紹介:
『虚無への供物』の著者・中井英夫が描く戦争への憎悪、最愛の母の死、そして文学への思い…。孤独に綴られていた稀有の戦中日記を完全復刻。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ

初出メディア

週刊読書人

週刊読書人 1971年12月13日

関連記事
ページトップへ