書評

『クォンタム・ファミリーズ』(河出書房新社)

  • 2020/08/31
クォンタム・ファミリーズ / 東 浩紀
クォンタム・ファミリーズ
  • 著者:東 浩紀
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(440ページ)
  • 発売日:2013-02-05
  • ISBN-10:4309411983
  • ISBN-13:978-4309411989
内容紹介:
人生の折り返し、三五歳を迎えたぼくに、いるはずのない未来の娘からメールが届いた。ぼくは娘に導かれ、新しい家族が待つ新しい人生に足を踏み入れるのだが…核家族を作れない「量子家族」が複数の世界を旅する奇妙な物語。ぼくたちはどこへ行き、どこへ帰ろうとしているのか。三島由紀夫賞受賞作。

「世界の終り」と三五歳問題

じつに多様な読みを誘発ないし許容する作品である。その事実だけでも『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』)はすでに一定の成功を収めたと評価できそうだが……。

直訳すれば「量子家族」となるタイトルどおり、軸を成す主題は「家族」だが、いくつかの副主題に取り巻かれている。

「量子」は大きくふたつの意味を担わされている。複数の並行世界が量子的に重なり合っているというSF的設定がまずひとつ。もうひとつは収束に失敗し続ける(幸福を求めて挫折し続ける)核家族の物語という意味だ。

「ぼく」という一人称で語られる主人公・葦船往人は、芥川賞候補にもなった作家だが売れず、冴えない私大の准教授になっている。往人には五歳年上の妻・友梨花がいるが、彼女の父の死をきっかけに関係が悪化し子作りを拒絶される。二〇〇七年、三五歳になった往人は奇妙なメールを受け取る。それは二〇三五年の未来から届いた彼の娘、生まれなかった娘・風子からのメールだった……。

以後、往人の語りと風子の手記が交互に登場するかたちで、並行世界にいる出会うはずのない「家族」が出会う物語が進む。この構成は、作中で言及され物語に大きく関与している村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を意識したものだ。

無数にある並行世界はネットを介して互いにつながっている。量子コンピュータが大規膜かつ複雑に絡み合ったネットワークが並行世界からの干渉を受信するアンテナとして機能し始めてしまったという設定である。並行世界に関する設定は過剰なほど入念で、「量子脳計算機科学」「ボーア=ペンローズ器官」「エヴェレット=クリプキ=シェン関数」「ドッペル固定指示子」といった架空の術語を駆使した論理はフェティッシュを喚起する。

この作り込みはひとえに「実在する世界」と「実在するかのように見える世界」の論理的位相を外すためのものだ。平たくいうと、現実と虚構は区別ができないというそれ自体はありきたりな命題にリアリティを与えるために導入されたガジェットであり、本質的には重要ではない。実際、術語を用いた記述のあとには、ほぼかならず平易な言い換えが付随する。たとえばこんな具合に。

この世界、二〇三五年の風子さんのコンピュータで走っている上位のシミュレーションをいったん止めて、下位世界の双子の固定指示ノードを通過する、量子意味論的複素行列の集合すべてを入れ替えて世界計算を再起動する。ひとことで言えば、ふたつの世界の葦船往人の人格を交換する。

副主題で重要なものはふたつ。両者は密接に連関しているが、どちらもいま述べた「実在する世界」と「実在するかのように見える世界」の位相がなくなることに直結している。ひとつは往人が直面する三五歳問題」、もうひとつはフィリップ・K・ディック的「悪夢」である。

「三五歳問題」とは、往人が作中、村上春樹の短編に見いだす問題で、実現されたかもしれないけれど実現されなかった可能性に囚われる憂鬱のことだ。「仮定法の亡霊」と形容されているが、三五歳は、「過去の記憶や未来の夢」の総和よりも、ありえたかもしれない「亡霊」のほうが大きくなる折り返し地点であるとされる。それは生きる意味を見失わせる。三五歳を迎えた往人は考える。

ぼくは、ハードボイルド・ワンダーランドに生きるくらいなら、むしろ世界の終わりを見たいと願っていた。

春樹のこの小説もふたつの並行世界を描いているが、作中人物のロを借りて作者は、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」が自身が数学的に作りあげた世界(「世界の終り」)に取り込まれて死に、そのなかで「僕」として再生する物語だと解釈する。「世界の終り」はシミュレーションであり、永遠の幸福が約束された夢の世界である。『QF』における「世界の終り」は、あらゆる可能な生が実現された無数の並行世界が量子的に重なり合った総体にほかならない。つまりそこでは、パラメータを適当に選びさえすれば「あらゆる人生の可能性、あらゆる決断の可能性をリテイクできる」はずなのだ。

だが往人が望んだ「世界の終り」は、ディック『ヴァリス』が導入されることで示されるのだが、悪夢の世界として立ち現れてしまう。東はディック論をいくつか書いており(「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」『情報環境論集』講談社ほか)、ディック的悪夢の本質を「脱出の不可能性」と「不気味なもの」というモチーフの共存に見ている。量子的並行世界とはディックのこのモチーフの現代的解釈にほかならない。

春樹的「夢」であったはずがディック的「悪夢」に変容するという反復が円環状に無限に繰り返される。その円環を断ち切る、すなわち三五歳問題を引き受けるために、家族の(つまり愛もしくは倫理の)物語であることが要請されている。だがむろん円環を断ち切ったところで世界が虚構でなくなるわけではない。それは巻末に「物語外2」というひとつの可能世界が置かれていることで確認されるが、ここは解釈が分かれそうだ。

本作は東浩紀の処女単独小説である。この小説はいくつもの読みを誘発しまた許容するように見える。葦船往人は作者の分身であり私小説のように読むこともできるだろうし、作中の思弁を批評家・東浩紀へと還元して解読することもできる。状況設定に現代を象徴する問題群への回答を見いだすことも可能だ。

だがいずれの読解も、東浩紀の思想や批評の枠に回収されるようにも見える。当然といえば当然であり、東本人も思想や批評の限界を打破するために小説という表現形態を採ったと平野啓一郎との対談で述べていた(『新潮』一月号)。批評は読まれるコンテクストの演出まで繰り込まなければ成り立たないが、小説はテクストだけで成立しうるからというのだが、『QF』の読みが東浩紀というコンテクストに回収されるのなら、この目論みは破綻することになる。きわどいところだ。小説家・東浩紀もまた、重ね合わせの状態に置かれているのである。
クォンタム・ファミリーズ / 東 浩紀
クォンタム・ファミリーズ
  • 著者:東 浩紀
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(440ページ)
  • 発売日:2013-02-05
  • ISBN-10:4309411983
  • ISBN-13:978-4309411989
内容紹介:
人生の折り返し、三五歳を迎えたぼくに、いるはずのない未来の娘からメールが届いた。ぼくは娘に導かれ、新しい家族が待つ新しい人生に足を踏み入れるのだが…核家族を作れない「量子家族」が複数の世界を旅する奇妙な物語。ぼくたちはどこへ行き、どこへ帰ろうとしているのか。三島由紀夫賞受賞作。

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