自著解説

『事典 日本の年号』(吉川弘文館)

  • 2019/10/01
事典 日本の年号 / 小倉 慈司
事典 日本の年号
  • 著者:小倉 慈司
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(432ページ)
  • 発売日:2019-06-26
  • ISBN-10:4642083537
  • ISBN-13:978-4642083539
内容紹介:
大化から令和まで、248の年号を網羅。年号ごとに在位した天皇、改元理由、年号字の典拠や訓みを解説した、〈年号〉事典の決定版。

「令和」難陳

二〇一九年五月一日に三〇年ぶりとなる改元が実施された。新元号は「令和(れいわ)」である。今回の改元は日本国憲法(にほんこくけんぽう)下二度目の改元であり、前回の平成改元と同様、国民主権に基づき、内閣によって元号字の選定がなされた。

平成改元直後より内閣内政審議室(ないかくないせいしんぎしつ・のち内閣官房副長官補室)によって新元号字についての検討作業が進められていたというが、元号公布一八日前の三月一四日に複数の識者に対し元号字の考案が正式委嘱された。提出された候補案を内閣総理大臣らが絞った上で、四月一日、「各界の有識者」九名よりなる「元号に関する懇談会」、また衆議院および参議院の議長・副議長に対し意見聴取がなされ、全閣僚会議において新元号が決定、ついで閣議が開かれ、同日のうちに改元の政令が決定、公布された。懇談会開催や意見聴取はなされるものの、それほど深く審議されたわけではなく、元号字の実質的な検討は四月一日以前、候補案を絞る段階でなされたと言って良い。この点は大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)下の大正・昭和改元においても同様であり、登極令(とうきょくれい)では天皇が枢密顧問官(すうみつこもんかん)に諮詢(しじゅん)し、勅定(ちょくじょう)することとされていたが、やはり実質的検討は枢密院に元号字案が提出される以前になされている。一八六八年の明治改元では、勘進された年号字三案より天皇が内侍所(ないしどころ)において籤(くじ)を抽くことによって「明治」と決定したが、この方式は岩倉具視(いわくらともみ)の提案であったという(『岩倉公実記』)。それ以前は、式部大輔や文章博士といった学者が年号字案を提出し、それを大臣等の公卿が改元定と呼ばれる会議において検討、その結果を天皇に奏上して決するのが、一〇世紀以来の通例であった。

改元定では出席者が年号字案の優劣を論じあったが、やがて「難陳(なんちん)」といって、各年号字案の難点の指摘とそれに対する弁護を交互に行なう形式が固まっていった。今回の「令和」改元においては、元号字の典拠が『万葉集(まんようしゅう)』とされたことをめぐって、発表後、典拠部分の原拠となる中国漢籍についての議論が活発になされたが、年号難陳の観点からは、「候補名の検討及び整理に当たっての留意事項」に含まれている要件(国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること、漢字二字であること、書きやすいこと、読みやすいこと、これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと、俗用されているものでないこと)以外には、「令」字の先例が紹介された程度にとどまっているようなので、ここで古来の年号難陳の視点から、「令和」を検討してみたい。

年号難陳にあたっては、年号字の典拠がまず問題とされる。この点については、今回はそもそもが先例にない国書であるから論外であるかのようにも思えるが、漢籍であっても基準として唐まで(および『旧唐書』『新唐書』)という考え方があったらしい。元暦(げんりゃく)改元(一一八四年)の際には、年号字の典拠とされた「尚書考霊耀(しょうしょこうれいよう)」が『日本国見在書目録(にほんこくげんざいしょもくろく)』(九世紀後半に作成された、当時日本に伝存していたとされる漢籍の目録)に掲載されていないけれども(それ以前の書物なので)問題がないとされている(『元暦改元定記』)。また建暦(けんりゃく)改元(一二一一年)の際には一一世紀初頭編纂の『宋韻(広韻)』が、康暦(こうりゃく)改元(一三七九年)の際は一〇世紀後半編纂の『太平御覧(たいへいぎょらん)』が未施行の書であるとして難じられた(『岡屋関白記(おかのやかんぱくき)』、『後愚昧記(ごぐまいき)』)。「未施行」とは厳密には朝廷で公的に講説することが命じられなかったことを指すが、「未施行」であっても問題とされないこともあるので、「新しい書物」程度の意識であったらしい。これらに比すれば、『万葉集』は八世紀の書物であるから許容範囲との見方ができるであろう。なお、明応(めいおう)改元(一四九二年)では、東坊城和長(ひがしぼうじょうかずなが)が以前に『周易(しゅうえき)』を典拠として提出した「明暦」(もともとは和長の父長清(ながきよ)が考案した)を唐橋在数(からはしありかず)に譲り、在数は典拠を『文選(もんぜん)』に変えて提出した(他人の年号字案を用いる際には典拠を改めるのが故実であった)が、その引文に問題があったため、結局、かつての和長の引文が用いられることになった(『和長卿記(かずながきょうき)』)。この事例からも知られるように、年号字の典拠は、学術論文とは異なり、より古いものを挙げなければいけないというわけではない。それは、重層性を評価する東アジア文化のあり方としてふさわしいとも言えるであろう。

次に「令」字について検討する。既に指摘されているように、「令」字はこれまでの年号・元号では使用例がなく、候補としても幕末の文久(ぶんきゅう)改元(一八六一年)・元治(げんじ)改元(一八六四年)時に「令徳」が挙げられたことがあるだけである。嘉吉(かきつ)改元(一四四一年)以降、年号字は従来使用されたことのある文字より選ぶこととされたが、これは年号難陳の苦労を軽減するためであったと推測される。延徳(えんとく)改元(一四八九年)時には早くも新字も勘進することとされた(『親長卿記(ちかながきょうき)別記』)が、実際に新字が採用されるのは、寛政(かんせい)改元(一七八九)の「政」字まで待たなくてはならなかった。

「令徳」の典拠は『毛詩(もうし)』大雅・生民之什の「仮楽の君子、顕々たる令徳、民に宜しく人に宜し、禄を天に受く」という部分である。文章博士高辻修長(たかつじおさなが)によって提出されたものであるが、修長はこの後、慶応(けいおう)改元(一八六五年)時に「平成」を勘進している。江戸時代には朝廷で改元定が行なわれる以前、幕府に七~八程度の案を事前に提出し、なかでも二~三を推薦した上でさらに意中の案を伝えて幕府の回答を待つという形がとられていた。従って年号難陳も形式的なものにならざるを得なかったが、それでも文久時の改元定で参議庭田重胤(にわたしげたね)が「令」は「善」であり引文も良いとし、権大納言柳原光愛(やなぎわらみつなる)も高く評価した。「令徳」を難じる公卿も、「令」字が新字であることの他は、「徳」字を用いた年号は使用期間が短いことが多いことを指摘した程度であった(岩瀬文庫蔵改元資料、国立公文書館蔵年号勘文)。二度目となる元治改元時には「令徳」が幕府に提出する七案のうちの第一候補とされたが、今度は幕府より「徳川に命令する」と読めるとの批判があり、第二候補であった「元治」に落ち着くこととなった(『逸事史補(いつじしほ)』)。

「和」字は「令和」も合わせると、これまでの使用回数が二〇回にも及び、うち一九回が二字目である。しかしそれほど良く使用された文字であっても過去には問題とされたことがあった。大治(だいじ)改元(一一二六年)時には「平和」「政和」が勘進されたが、「仁和」「安和」「寛和」「長和」といったそれ以前に「和」字のつく年号は多く代末の年号(崩御など治世が終了したときの年号)であったとして不吉だと認定されている(『大治改元定記』)。ところが養和(ようわ)改元(一一八一年)時には「康和」という吉例があるとして「養和」が採用され、その後、「和」字を不吉とみる考え方は徐々に薄れていき、「元和」「明和」といった吉例が積み重ねられていった。

まだまだ難陳すべき点も残されているが、紙幅が尽きたのでここで終えることとする。今回の元号字検討過程を記録した資料が公文書管理法の精神に則って適切に保存され、後世に検証の機会が与えられることを期待したい。

[書き手] 小倉 慈司(国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学准教授)
事典 日本の年号 / 小倉 慈司
事典 日本の年号
  • 著者:小倉 慈司
  • 出版社:吉川弘文館
  • 装丁:単行本(432ページ)
  • 発売日:2019-06-26
  • ISBN-10:4642083537
  • ISBN-13:978-4642083539
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大化から令和まで、248の年号を網羅。年号ごとに在位した天皇、改元理由、年号字の典拠や訓みを解説した、〈年号〉事典の決定版。

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