後書き

『宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本―』(名古屋大学出版会)

  • 2020/11/06
宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本― / 永岡 崇
宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本―
  • 著者:永岡 崇
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(352ページ)
  • 発売日:2020-10-27
  • ISBN-10:4815810052
  • ISBN-13:978-4815810054
内容紹介:
信仰の“内か外か”を越えて――。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。
天理教を事例に、新宗教の実像に迫った前著『新宗教と総力戦』が話題となった永岡崇氏。このたび刊行された『宗教文化は誰のものか』では、大本(大本教)の戦後の歩みをどのように読みなおしていくのでしょうか。本書の内容をあとがきから抜粋してご紹介します。

最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直されてきたのか――大本の思想や歴史に向きあう多様な人びとの信念や欲望、そこに生起するざわめきをとらえる

以前、あるベテランの宗教研究者に「大本はおもしろすぎるから……」といわれたことがある。たしかに強力な個性をもつふたりの教祖や二度の弾圧事件をはじめ、大本の歴史は起伏に富んだエピソードが満載で、じつに“おもしろい”。日本の他の宗教集団にくらべても、その豊かな物語性は際立っていると思う。少々慌ただしいタイミングだったこともあって、その「おもしろすぎる」という言葉の意図をくわしく尋ねることはできなかったのだが、大本の物語的な“おもしろさ”に目を奪われすぎると、安直なロマン化や特殊な一事例の掘り下げにしかならず、多様な宗教集団に通用するような一般理論の構築にいたることができなくなってしまう、ということではなかったかと思う。

大本のロマン化に警戒すべきだという点には私も同意する。本書も、その「おもしろすぎる」大本像の構築過程を問い、そこに働く力学を意識化することを課題のひとつとしている。戦後の大本イメージを強力に方向づけてきた“民衆宗教”という物語に、そこに盛られた“異端”や“反権力・反体制”という価値に、もはや私たちは素朴な信頼を置くことができない。かつて考えられていたよりも権力は多型化し、偏在して私たちの日常を構成しているのであり、それらにたいする批判や抵抗の道筋はもっと複雑化させられる必要があるだろう。そしてその新たな道筋は、古い道筋の問題点をくりかえし点検するところから切りひらいていくしかないのだ。

その一方で私は、多様な宗教集団に手軽に適用できる、価値中立的な一般理論とか法則性などといったものを大本から引き出すことをめざしているわけではない。もちろんそうした仕事の有用性や重要性は理解しているつもりだし、本書の議論がそのための手がかりになるとすればそれは喜ばしいことだと思うが、私自身の関心は違ったところにある。私が志したのは、大本という特異で過剰なシニフィアンをめぐる読みの運動が生成させるさまざまな矛盾や葛藤から、戦後日本という場の複雑な歴史性を浮かび上がらせることである。安丸良夫さんは「出口なおと大本教を通じて、近代化してゆく日本社会の全体を逆照射し相対化できるはずだ」といったが(「宗教文化の可能性――文庫版「あとがき」に代えて」『出口なお――女性教祖と救済思想』岩波現代文庫、2013年、291頁)、私も自分なりの視点とやり方でその課題に取り組もうとしている。本書における民衆宗教研究批判の先にあるのは、“民衆宗教”概念の廃棄、あるいは学説史という名の陳列ケースへの封印ではなく、その批判知としての可能性を継承し、再生させることなのだと考えたい。

自分が書いたものを読みかえすと、全体をとおして「矛盾」「葛藤」「困難」「捻じれ」といった単語をかなり多用していることにあらためて気づかされる。ワンパターンな発想、あるいは頑固な思考の癖が露呈しているようで気恥ずかしくはあるのだが、一方ではこうした単語に象徴される入り組んだ局面へのこだわりにこそ、自分の研究者としての個性があるような気もする。それらは直線的に流れる時間、きちんと区分・分類されたカテゴリー、確立された方法論をはみ出し、撹乱する重要な契機なのであり、私の役割はその潜勢力を開示することにあるのだ(と思う)。そうして世界についての認識を複雑化・多層化させていくところに、人文学のアクチュアリティが見出されるべきなのではないだろうか。

本書に即していえば、それぞれの仕方で大本の思想や歴史に向きあう多様な人びとの信念や欲望が接触する場を見出し、そこに生起するざわめきをとらえることが私の課題だった。彼らは純粋で明快な理念もしくは概念によって大本を解釈し、戦後日本の現実に対峙しようとした。だがそこで動員される平和主義やアジア主義、民衆性、反権力・反体制、あるいは尊皇愛国や文化ナショナリズムなどといった諸概念は、そのいずれもが大本と重なりあう部分をもちながら、同時に蔽いきれない裂け目を内包し、場合によっては相互の激しい対立を生み出すことにもなったのである。人びとは同時代の権力関係に翻弄され、両義的な過去に足元をすくわれた。大本という対象は、つねに概念をはみ出し、私たちの認識に揺さぶりをかけるのだ。

かつてテオドール・W・アドルノが論じたように、概念はけっしてその対象と同一化することができないのであり、それは社会や現実そのものを構成している矛盾・分裂に対応している(『否定弁証法』作品社、1996年(原初1966年)、参照)。そうであれば、大本と諸概念の間で生起する数多くの矛盾や葛藤は、その分だけ彼らが近代日本の現実との激しい接近戦を演じてきたことを示しているのだろう。私たちが生きる現実の複雑性に向きあうためには、わかりやすい物語や理念によってそれを糊塗するのではなく、現実を意味づけようとする諸概念の間の矛盾、そして諸概念が現実との間で引き起こす軋轢に目を凝らす必要がある。本書の登場人物たちの思考と実践の軌跡、そして彼らが抱えこんだアポリアを照らし出すことこそが、相変わらず矛盾と分裂に満ちたこの世界をめぐる批判的思考のための足がかりとなるのではないだろうか。

[書き手]永岡崇(1981年奈良県生まれ。駒澤大学総合教育研究部講師)
宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本― / 永岡 崇
宗教文化は誰のものか―大本弾圧事件と戦後日本―
  • 著者:永岡 崇
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(352ページ)
  • 発売日:2020-10-27
  • ISBN-10:4815810052
  • ISBN-13:978-4815810054
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信仰の“内か外か”を越えて――。最大の宗教弾圧事件の記憶は戦後、いかに読み直され、何を生み出してきたのか。教団による平和運動を導くとともに、アカデミアにおける「民衆宗教」像の核ともなった「邪宗門」言説の現代史から、多様な主体が交差する新たな宗教文化の捉え方を提示。

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