後書き

『パリのパサージュ-過ぎ去った夢の痕跡』(中央公論新社)

  • 2021/08/06
パリのパサージュ-過ぎ去った夢の痕跡 / 鹿島 茂
パリのパサージュ-過ぎ去った夢の痕跡
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(257ページ)
  • 発売日:2021-05-21
  • ISBN-10:4122070651
  • ISBN-13:978-4122070653
内容紹介:
フランス革命直後からパリに陸続と生まれたガラス天井の通り抜けを、「パサージュ」という。オペラ座、パノラマ、グラン・ブールヴァール……街の名所が移るたび、生まれては寂れ、パリ市民の動線を変えてきた。夢と欲望が吹き抜けたパサージュの歴史は、パリ近代化の歴史でもある。現存する19のパサージュを辿る新しいパリガイド。

文庫版のためのあとがき

パサージュについて初めて書いたのはまだバブルの余波が残っていた一九九二年のこと。納税額三〇〇〇万円以上(!)の資産家だけを対象に無料で配布される豪華雑誌として鳴り物入りで創刊された「ジャパン・アベニュー」(ジャパン・アベニュー社)の一九九二年十月号(通算十五号)に寄稿したのである。

「ジャパン・アベニュー」は同じコンセプトの「ニューヨーク・アベニュー」の日本版で、版元のジャパン・アベニュー社はダイヤモンド社の社長(後に会長)で財界のフィクサーと呼ばれた故・坪内嘉雄氏(昨年一月に急逝された批評家・坪内祐三氏の父君)がこの雑誌のために設立した出版社であった。

「ジャパン・アベニュー」は編集顧問が作家の丸谷才一氏で、編集長は書評家として名高い向井敏氏という、これまた豪華な布陣で、『イギリスはおいしい!』がベストセラーとなった林望氏や、中国文学者の高島俊男氏が連載を持つなど、格調高く、かつ面白い素晴らしい雑誌だったが、バブル崩壊と同時に休刊になった。

記憶を辿ると、一九九一年の暮れ、私が『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞を受賞した直後に編集長の向井敏氏から呼び出しを受け、銀座一丁目のホテル西洋銀座のレストランで会食したさいに「ジャパン・アベニュー」への寄稿を依頼されたのだと思う。そのとき、向井氏から、次号はパリ特集を組みたいから、パリで取材した上で少し長めの巻頭エッセイをお願いしたいと言われた。

まだ連載を抱えてスケジュールが空けられないなどということはなかったから、渡りに舟で応じたが、問題は何をテーマにするかということだった。そのとき、とっさに思いついたのがパリのパサージュを巡る旅というアイディアだった。というのも、私のパリ旅行というのはイコール古本屋巡りの旅だったが、この古本屋巡りの時に必ず足を運んでいたのがパサージュだったからである。具体的にいうと、ギャルリ・ヴェロ=ドダ、ギャルリ・ヴィヴィエンヌ、パサージュ・ショワズール、パサージュ・ジュフロワ、パサージュ・ヴェルドーなどで、これらのパサージュにはいずれも古本屋があったのだ。

向井氏は私の提案をただちに了承され、予算内なら自由にパリに取材旅行してきてOKという、いまにして思うとなんとも鷹揚な条件を示された。普通、こうした取材旅行は編集者とカメラマンと三人で出掛けるもので、それなりに不自由なのだが、写真は原稿が上がってから現地のカメラマンに依頼するということで、一人で自由に歩き回りたい私としては願ったりかなったりのオファーであった。

かくて、私は大学の正月休みを利用して、歴史的な知識も仕込んだ上でパサージュ巡りの旅に出掛けた。このときに仕上げた原稿は「パリ時間隧道」のタイトルで「ジャパン・アベニュー」に掲載後、翌一九九三年に筑摩書房から刊行された『パリ時間旅行』に収録した。この本は後に中公文庫に入り、いまだに版を重ねているから、お読みになられた読者も多いかと思う。日本でパサージュばかりを体系的に紹介した最初のエッセイだったと思う。この後、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』が翻訳され、パサージュがちょっとしたブームになったのはパリ好きなら知らぬ者はいないだろう。


それから十五年ほどたった二〇〇七年の夏。私は考えるところあってパリのパサージュを網羅した本を書こうと思い立った。それは、ながらく閉鎖されて改装工事が進められ、一九九〇年代の終わり頃にリニューアル・オープンしたパサージュ・デュ・アーヴルをたまたま通りかかって愕然とした体験による。つまり、こんな改装では日本のショッピング・モールとまったく同じではないかと感じて、大いに落胆したのだが、同時に強い危機感も覚えたのである。もしかするとパサージュ・デュ・アーヴルの改装が成功例と見なされ、パリに残った他のパサージュも次々と同じようにリニューアルされていくのではないかと恐れたのだ。ならば、この際、パリのすべてのパサージュを写真撮影し、同時にそれぞれのパサージュの印象と歴史的由来をしっかりと記録して「街路の記憶」を保存しておこうと考えるに至ったのである。

そこで、グラフィックな本を得意とする平凡社の編集者・清水壽明氏に相談したところ、OKが出たので、書き下ろしで執筆に取り掛かったのだが、やはり正確な記述のためには現地に足を運ぶしかない。だが、平凡社の予算では私とカメラマンの取材費の全額は無理ということだったので、写真撮影は私の長男でカメラマンの鹿島直に頼むことにした。親子なら無理がきくからである。

結局、写真撮影は一回の渡仏では済まず、夏と冬の二回に及ぶこととなった。サン=ジェルマン=デ=プレの一番安いホテルである「オテル・ルイジアーヌ」に宿を取り、そこを拠点にして、わずか数日の滞在で十九のパサージュをすべて巡るという強行軍を夏バージョンと冬バージョンで二回撮影したのである。とくに冬の取材では猛烈な寒波の襲来を衝いての撮影だったが、よく試練に耐え、なんとか結果を出せたのは幸いだった。

長男は、一九八四年から一九八五年にかけて私が在外研修でパリに滞在した際、エッセイ集『子供より古書が大事と思いたい』(青土社、のち文春文庫)に描いたような理不尽な思いをさせたあの小学生である。それから二十二年を経た二〇〇七年に今度はカメラマンとして、かつて何もわからずに足を踏み入れたことのある同じパサージュの古書店を訪れるという運命の巡り合わせとなったのである。

なお、正確を期せば、取材はもう一度、二〇〇八年の一月にも行われた。このときは長男は同行せず、私の単独行だったが、それは、上がってきたゲラの情報が正確かどうか、パサージュをもう一度歩いて番地や店の業種などと突き合わせを行うためだった。当時はまだインターネットは普及しておらず、情報も不十分だったのだ。

ところで、この確認作業中に思いがけない出会いがあったことを記しておきたい。パサージュ・ショワズールのリブリア書店の前だったと思うが、私がゲラを片手にこの確認作業をやっているとき、向こうから日本人の親子三人連れが歩いてきた。その父親とおぼしき男性と目があったとき、どちらともなく、ほぼ同時に「アッ!」と声が出た。というのも、面識がなかったにもかかわらずお互いに相手がだれなのかすぐに分かったからである。

「鹿島さん?」

「辻さん?」

そう、その未知の人とは、当時、結婚を機にパリに移り住んでいた作家の辻仁成さんだったのである。

私たちはしばらく立ち話をした後、それぞれ用事があって別れたが、これぞ一期一会であった。辻さんもこの意外な出会いが強く記憶に残ったらしく、後に作家の江國香織さんとの対談でこのエピソードを語られていた。

パリというのは、東京よりも思いがけない出会いが頻繁に起こる場所なのである。


それはさておき、企画の段階から、たんなるパサージュ写真集にはしたくなかったので、テクストの方にも力を入れていたが、こちらは案外、苦労した。一九九二年のときと違ってパリのパサージュについての詳細な研究書は何冊か出ていたのだが、それでも分からないところは多く、原資料に当たるために十九世紀の新聞を検索したり、マレ地区の古文書館にも足を運ぶ必要が出てきて、思いのほか執筆に手間取ったのである。

さらに、当初は、既訳を充てれば済むと思っていた「パサージュ文学全集」の章も、引用が長くなりすぎたので、いっそ自分で訳すべきではないかと判断した。こちらにも時間を多く取られたのである。

このように、自分で言い出したことながら、『パリのパサージュ』は完成までに予想外の時間と手間が(それに金も)かかったが、出来上がりは素晴らしく、非常に美しい本になったと思う。この本を片手にパサージュ巡りを試みる人も出てきたのは作家冥利に尽きると言えるだろう。


さて、時間は大きく飛んで、コロナ禍で世界が覆いつくされた二〇二〇年の初夏。厳重な都市封鎖令により、パリは人通りが完全に絶えたらしく、無人の街路の写真や映像がテレビやネットを賑わしていた。 パサージュの中には、コロナ禍で荒廃が加速して都市封鎖解除後も客が戻らず、取り壊されるところも出て来るだろう。

十三年前に決断して記録を残しておいたのは正解だったかもしれないと、ひさしぶりに『パリのパサージュ』を書棚から取り出してページを開いてみた。そのとたん、なんとも抑えようのないノスタルジーがわいてきて、副題の「過ぎ去った夢の痕跡」という言葉が胸に迫った。

思えば、一九七九年に初めてパリを訪れて以来、いったいなんどパサージュを通り抜けたことだろう。私のパリの記憶はパサージュの記憶と完全に重なっているのである。

ならば、あと数年はパリにいけないのだから、この本を復刊して、パリ好きの読者に想像力の中でパサージュに遊んで「過ぎ去った夢の記憶」を反芻していただいたらどうだろう。考えはただちに実行され、いまここにあるように、『パリのパサージュ』は中公文庫で復刊される運びとなったのである。

といっても、そのままの復刊ではない。平凡社版では「まえがきに代えて」と「パサージュの定義」の次に、かなり学術的な記述である「パサージュの歴史」が来ていたため、イントロから「過ぎ去った夢」の中にそのまま入っていくことができないという声が読者から上がっているのを知っていたからである。

この反省により、本書では、「パサージュの歴史」を「パサージュガイド 19の散歩路」の後ろに回し、また「失われたパサージュを求めて」と「現存するパサージュを読む」を一つにまとめて「パサージュ文学全集」という章題を与えることにした。このような構成ならば、読者はイントロの後ただちにパサージュ巡りのバーチャル旅行に出掛けることができるし、その後であらためてパサージュの歴史を辿り、文学作品の中にパサージュの痕跡を探ることが可能になるからだ。

また、写真については文庫化に伴い枚数を半減させ、カラー頁も減らさざるをえなくなったので、それを補うために、購読者限定サービスとして特設サイトを開設し、次頁のQRコードやURLからサイトに飛ぶことができるように工夫してみた。これにより、割愛されたり、白黒化したカラーのオリジナル画像が閲覧可能になった。新しい試みだが、スマホ等を駆使できる読者なら楽しみは倍加するにちがいない。

最後になったが、文庫化に当たってお世話いただいた中央公論新社編集部の藤吉亮平さんに、また、文庫化を許可していただいたばかりかデータも提供していただいた平凡社編集部にも、この場を借りて感謝の言葉を伝えたい。

2021年3月22日
鹿島茂

【オンラインイベント情報】2021年8月13日(金) 20:00~、鹿島 茂『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』刊行記念講演会「パリを空間と時間で旅する過去未来旅行」

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今回は、鹿島茂『パリのパサージュ 過ぎ去った夢の痕跡』(中央公論)の文庫化に合わせた記念講座。
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パリのパサージュ-過ぎ去った夢の痕跡 / 鹿島 茂
パリのパサージュ-過ぎ去った夢の痕跡
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(257ページ)
  • 発売日:2021-05-21
  • ISBN-10:4122070651
  • ISBN-13:978-4122070653
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フランス革命直後からパリに陸続と生まれたガラス天井の通り抜けを、「パサージュ」という。オペラ座、パノラマ、グラン・ブールヴァール……街の名所が移るたび、生まれては寂れ、パリ市民の動線を変えてきた。夢と欲望が吹き抜けたパサージュの歴史は、パリ近代化の歴史でもある。現存する19のパサージュを辿る新しいパリガイド。

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