対談・鼎談

糸井重里の萬流コピー塾|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2024/05/02
糸井重里の萬流コピー塾 ぶんこ版 / 糸井 重里
糸井重里の萬流コピー塾 ぶんこ版
  • 著者:糸井 重里
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(472ページ)
  • 発売日:1988-03-01
  • ISBN-10:4167469014
  • ISBN-13:978-4167469016
内容紹介:
セン柳より面白いからマン流なのだ。ワイセツなことを考えてはいけない。広告は世界を変えたが、萬流は広告を変えた。IT革命や南北会談には残念ながら及ばなかったが、ギョーカイの技術革新、… もっと読む
セン柳より面白いからマン流なのだ。ワイセツなことを考えてはいけない。広告は世界を変えたが、萬流は広告を変えた。IT革命や南北会談には残念ながら及ばなかったが、ギョーカイの技術革新、男女摩擦については大いなる洞察を見せたのである。これはまさに、来るべき新世紀にむけての一大セイシン運動と評すべきであろう。バブル黎明期の日本に突如あらわれた天才コピーライターが一般応募の秀作を格付け。予想を超える鬼才たちが集まり、一行メッセージにしのぎを削る。

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山崎 糸井重里さんという、当代一流のコピーライター、普通の日本語でいうと、宣伝文の書き手、ですが、その人が「週刊文春」誌上で、宣伝文の学校のパロディを開きました。読者にコピーの投書をさせ、これに点数を与え、お遊びとして弟子に取り立てて、コピーの家元制をつくろうという企画です。その連載を一冊にまとめたのが、この本です。

いま、伝統的な文学から、日常のことば遊びまで、さまざまな言葉の芸がある中で、もっともお金をかけて熱心に行われているのが、たぶん、宣伝文句というものだろうと思います。

もとより宣伝文句は商品を売るという目的を持っているわけですが、そういう目的を捨て去って、文字通り芸として愉しむ。そういうことをある人が提唱しますと、たちまち無数の読者が遊びに加わってくる。本来、目的ある言葉を愉しみ事にしてしまうというのは、極めて伝統的な日本の言語観の一面です。

そしてその遊びが、遊びに留まらないで、たちまち一種の修業になり、道になり、教育になるというのも、日本の伝統でありますが、糸井さんという人は、それを十分意識的に利用しています。例えば、点数のつけ方は松竹梅に毒という伝統的な用語ですし、弟子が名取りになり、師範になるというところに至っては、苦笑せざるをえないほど、わが国の伝統を踏まえてます。

丸谷 破門もあるのね。(笑)

山崎 一つだけ違いをいうと、家元が時々、手本を示すというのが近代的なところでして、日本の伝統芸能では滅多に家元は手本など示してくれません。

そして、ずっと見ますと、いい点数をもらうコピーは、曰(いわ)く言い難いある価値基準を含んでいますが、その基準たるや「萬流(まんりゅう)」といわれる、糸井一門独特の価値観なんです。糸井さんが、これがいいと選んでいくのを辿(たど)ると、何となくある一貫性があるな、とは思うものの、これを論理的に説明することは難しい。いわば先ほどのすね間でして、常間ではない。だけど、これがすね間だよ、というと、投稿者一同がたちまち理解して、そこへ狙いをつけてくる。

その上でなお傑作なのは、「一夜を共にする口説き文句」で、最高点「松」をとったのは「愛してる」という、最も素朴なる一言。そこで言う家元の評がふるっています。〈萬流は、萬流にして萬流に非ず。「萬流とは何ぞや、をわかったつもりになっていると萬流を小さくしてしまうのでございますね」――これは番頭つまり「週刊文春」の編集者が言ってるわけですが――まるで禅問答だが、その通りなのだ〉

これは、私どもが、短詩型芸術の雑誌などを見ている時に感ずる、何となく居心地の悪い、しかし、ああ、あれだなと分る、その感じを非常によく言い表していると思います。

丸谷 いまは言葉遊びの時代なんですね。そして、現代人が最も関心を示す言葉は何かというと、資本主義と結びついた言葉、つまり広告の文章ですね。そこで、それなら単に広告文案を募集するかというと、そうじゃなく、広告文案のパロディを募集しているわけです。だからこれは、日本の資本主義のあり方に対する批判というか、批評というか、なにかそういう感じがある。別に諷刺というほどのものではないけれども。その日本資本主義の枠の中で遊ぼう、という試みだと思うんです。

ところで、なぜ今、広告文案がこんなにみんなの関心を集めるかということですが、江戸時代から第二次大戦前までの日本の広告は、やはり、和歌的、漢詩的な言葉づかいのものでした。漢詩的なものの模範的文案は、頼山陽がつくった「剣菱」のコピー、「兵用ふべし、酒飲むべし、海内何れのところにか、この品に当らん……伊丹の剣菱、美(うま)きこといかん。各々一杯を酧(むく)いん。よく飲むや」。それから和歌的文案の最高のものは、蜀山人が作った「八百善」の広告文、「詩は詩仏、書は米庵に狂歌おれ、芸者小万に、料理八百善」(笑)

その和歌的、漢詩的なものが衰えてしまった現代で、いったいどうすれば広告文案は可能なのか、それはどうしても、一種、西洋的なものの翻訳の調子でゆくしかなかった。さらに広告文案にはユーモアが大事なんだけれども、和歌的、漢詩的なユーモア、つまり狂歌、狂詩的なユーモアは、もはや通じないわけですね。それでどうしても、西洋のものの翻訳的なユーモアになる。

しかし、それにもかかわらず俳句、短歌的な短詩型文学の伝統は脈々として残っている。そこで広告が要求するものと俳句、短歌の身近さとが妙なふうに結びついて、広告文案に対する、全日本的関心が起ったんじゃないでしょうか。

ただし、俳句とか短歌とかは、一種の座の文学という様相があって、みんなが集まって短いやりとりをし、打ち興じるという、大変大事な性格があるわけです。そこのところを糸井さんは、うまく利用して「萬流塾」というコピーの座をつくった。

しかし問題なのは、これはコピーなのか、それともコピーのパロディなのか。そこが塾長自身がときどき分らなくなっている。(笑)まして弟子たちになると、全然分らなくなってしまう。

萬流塾の大会があったとき、野坂昭如さんが、いったん投稿したうえで、「自分は商品を売るためのコピーを書いて出したけれども、どうも聞いていると、売ることとは関係ないらしいから、返してくれ」と言ったというのを「週刊文春」で読みました。あの人は昔、コマーシャルソングのライターだった人だから、じつにいいところを衝いているなあ、と思ったんですよ。

という調子で、いろいろ問題はあるけれど、にもかかわらず面白いし、しかし面白いといったあとで、すぐに、これは問題があるなあという気になりますね。一言でいうと、これはルールのよく分らないゲームだ、という気が私はしました。

木村 この本の中で一番面白かったのは、各章の最後にある「では、家元は帰るぞ」という文句。(笑)ここに現代人のメンタリティーがよくでていますね。

第一に「家元は帰るぞ」といっても誰も引きとめない。(笑)ある調査によると、「仕事は仕事、余暇は余暇」という新人サラリーマンが八八%をしめる、仕事優先はわずか九%だというんです。つまり適当に仕事をし、適当に遊ぶというのが現代人の特色なんですね。とことんまでつきつめて徹夜したりはしない。そしてまた、家元も弟子もとことんまでつきあって、相互に干渉し合おうとはしない。

そして、もう一つ。破門の一号を見ると、「デートにこぎつける」というテーマで「老いも若きもおりまぜて、はっ、踊ろじゃないか」……。

山崎 小林秀雄でしょう。(笑)

木村 「出たッ、破門第二号」は、「群馬の子はね、バナナをもらえば何でもするの」。どうもセックスの秩序を乱すのは破門になるらしい。(笑)糸井さんという方は、現代最先端の感覚をもっているようで、その底には、きわめて秩序安定型、体制順応型のところがあり、資本主義の権化みたいなものですね。

山崎 だって、自称一行一千万円だそうですから。

丸谷 木村さんという方は、ずいぶん反体制的なんですねえ。(爆笑)

山崎 いまのは、木村さんについてのコピーとして秀逸だ。(笑)

木村 「竹」だ。(笑)

丸谷 「竹」ですか。(笑)

山崎 いや、「毒」がある……。(笑)

木村 ということで、丸谷さんは言葉遊びの世界とおっしゃったけれど、もっというと言葉だけの世界、ですね。

しかし、これは理由があるので、いまのようにどのメーカーの製品を買っても、品質と値段は同じという状況の中では、言葉だけが大事になってくる。しかも秩序を破壊してみても展望が開けない。その中でいかにしてセンスを発揮するかが競われる。そういう意味では、ある程度のユーモアと、デリカシーと、逆説を含んでいますが、徹底的な迫力はない、というのが私の印象です。

山崎 ルールが分らないゲームと、丸谷さんはおっしゃった。これは日本的短詩型芸術の伝統そのものなんですね。たしかに、その世界に三日もいるとルールは分るんです。微妙なルール。これは短詩型芸術に限らず、お花をやれば、小さい枝をちょっと曲げただけで別の流派になってしまう。

丸谷 そうか、分った。萬流コピー塾に対する私の関係は、「ホトトギス」俳句に対する「俳句第二芸術論」の桑原武夫の関係なんだなあ。(笑)高浜虚子は桑原さんのことを、俳句のおもしろさのわからないかわいそうな人、と言ったそうですが、僕もそういう、かわいそうな男らしいや。(笑)

山崎 これはかなり深刻な文化論に結びつくんですが、良きにつけ悪しきにつけ、中国の詩は志を述べるものなんです。それに対して日本の詩は「あわれ」を述べる。志に対して「あわれ」ということを言ってしまったが最後、文学は極めて高級になるか、逆にナンセンスになるかどちらかなんですね。

ということは、宣伝文句についていうなら、商品の利点、本質を謳う――つまり志を述べる――ことから離れて、何だか分らないが、ただ商品のイメージを述べるという現代のコピーは、まさに中国の詩に対する日本の短詩型芸術なんです。

志を述べては相ならんということになると、そこにはきわめて微妙な、宙に浮いたような物差ししか生じない。しかし、それは明らかに存在するので、閉じられた集団の仲間うちにいると分る。それが一種のすね間のような不思議なものになっていく。あまりそれをやりすぎると、自分でもつらくなって、先ほどの「愛してる」がでてくるんですね。

ところで、そういう枠の中でも、なかなか面白い文句があると思うんです。

たとえば国鉄の宣伝文句、「野ツボの横でも走ります!」、これはうまいなと思いますね。「一夜を共にする口説き文句」で「こわい話なんかしないから」、これもいいですね。「冷し銭湯はじめました」(銭湯)も、なかなか面白い。

木村 私が「松」をつけたのは「エイズは怖いわよと、兄は力なく笑った」(AIDS)、これは怖さもあって最高にいいですね。「竹」は「いま裕子を帰したら、ぼくら友達になっちゃうと思うんだ」(一夜を共にする口説き文句)

丸谷 僕も、それなかなかいいと思いました。(笑)

木村 そして「梅」が「私が何をしたというのだ、何もしてないじゃないか」

山崎 それも名作の一つですね。

丸谷 やはり口説き文句でしたっけ?

山崎 いえ、巨人の藤田前監督の売り文句です。(笑)

丸谷 「ルールのわからないゲーム」という私の感想に対して、山崎さんは、それこそ日本の短詩型芸術の伝統だとおっしゃった。

それはまあ一応そういえるのかもしれないけれど、しかし明治維新前の和歌、俳諧では、文明がルールを保障していた。ところが現代短歌、俳句になると、その文明とルールとの関係がなくなった。単に文学形式自体があって、しかもそれがルールを持たなければならない、ということになった。実は、そんなこと不可能なんですね。たとえば蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」は、菜の花と日月で、日本の国土とか四季のきちんとした移り変りとかを祝福している。その祝意がこもっているせいであの短い文句が厚みを持つんです。ところが現代俳句、たとえば山口誓子の、「通る電車白シャツぎっしり充ちて過ぐ」なんてのになると、そういう祝意は何もないでしょう。別におかしくもない。ただ孤独なだけですね。そういう、短歌や俳句にすらきちんとしたルールのない文明における言語遊戯が、現代のコピーなんですね。そしてその最も露骨な表れがコピーのパロディである萬流コピー塾だという気がするんです。そういう現代文明の条件を背負って悪戦苦闘している健気(けなげ)な男女の姿を見て、僕はヘンな感動というか、感傷におそわれて、何だか笑えない。

山崎 読んでいると、みなたいへん真面目ですね。前に取りあげた「見栄講座」と同じ真面目さ。それで家元も「点とマルを大事にしろ」とか、「コピーは危険物だということを認識してつくれ、誰を殺傷してもかまわないから効果的な武器をつくるという発想は認められない」という。何というかじつに律義ですね。

丸谷 あ、それはそうです。でも糸井重里くらい成功する人間なら、それくらいの分別があるのが当り前でしょう。しかしその分別をこういう形で発表するのは、ちょっと不思議ですね。

木村 いやいや、それは女の感覚ですよ、女というのは恥かしいことをどんどん表に出すわけ。“ハチの一刺し”みたいにね。(笑)この本は全体に女性的な感覚が随所にでている。若い男だったら徹夜してもガンバるけれど、女の人はめしを食わないと頭が働かないし、眠くなると寝ちゃう。寝ないとあとは頭も身体も全然動かない。そういう自然のリズムにそって生きるのが女性ですね。時間になると帰っちゃうこの家元には、そういう女性的真面目さがありますね。「苦しくてもやっていけるんですよ、奥さん」(国鉄)、「もう一度ハイライトにすれば、人生だってやりなおせる……かもしれない」(ハイライト)、「そそり立つ果実」(バナナ)、これは女性の忍苦と反省と願望の神経ですね。(笑)

山崎 尻馬に乗っていうと、そういう女性の持っている感覚のほうが家元の評より優っている例があります。ある女弟子が「国鉄」の広告をつくって曰く、「新幹線て正面から見ると、けっこうかわいいのよね」。家元曰く〈このイージーさと、明るさは、学ぶべきであろう〉――とんでもない話で、走っている新幹線を正面から見たら、次は死ぬんですよね。(笑)じつに無邪気に恐しいことをいっている。これは明らかに、今の女性のほうが、男性より辛辣で痛烈だということですよ。

木村 あ、そうか。僕も一つ抗議します。「東京大学」で「こないだ、わが家に東大卒の嫁さんが来た。明るくて働き者と、近所でも評判です」、その家元評が〈このコピーが(梅)ではなく(竹)であるということがわからないといかんのです〉とは、これ、何ですか。

多分、東大の女子学生というと家事もせず、深刻な性格の女性ばかりだろうということで、パロディにしたんじゃないでしょうか。とんでもない話で、いま東大の女子学生はじつに単純で明るいんです。(笑)パロディにもなんにもなりません。現実認識がなっとらん。(笑)

丸谷 実態を知らないで、通念で見てるってことね。通念で物を見ることもコピーライターとして成功するための条件なんじゃないかしら。

木村 おっしゃる通りで、それがコピーの身上であり限界でもあるんですね。

山崎 糸井重里という人は、選んでいるコピーを見ると、非常に繊細な人なんです。エイズというような厳しすぎる題を選んだのは時期尚早だったと反省してみたり、ハイライトについては、「パンパカパーンッ、今週のハイライト」といった言葉だけで遊んじゃいけないんで、ハイライトがどういう商品かを正確に把握したうえで、誇張なり飛躍をしないといけない、というあたりは実に立派なんですね。ところが各章の枕にふってある前文、これはいけません。

丸谷 あれがしかし、座的共同体を作っているんだろうね。

最近の俳句結社で大事なのは、年に一回、大会を開くと、そこでカラオケ大会をやり、宗匠が流行歌を歌いまくることなんだそうです。そうすると、あの先生は気さくでいい人だというので、その俳句雑誌は長続きするんですって。そのカラオケの歌みたいなものじゃないかと思いました。

山崎 なるほど。そうすると葛西善蔵が、入門志望の文学青年を前にして「キンタマ見せろ」といったというのと似たようなものですな。

丸谷 うーん……。(笑)

山崎 先生のもはみだしていたそうだけど。(笑)

丸谷 どうも譬(たと)えがひどすぎるので、具合悪いなあ。(笑)つまりなんとかして親密感をつくりたいのね。

山崎 いいことおっしゃった。現代文化の特色の一つとして、弱さや愚劣さを披瀝して親密さを繋(つな)ごうという手がありますね。テレビの司会者とか、学生の人気とりをするある種の大学教授とかによくある。しかし、これはそうかな。

丸谷 糸井さんという人は社交的に無器用な人なんだと思う。それでこういう前文を書くんじゃないのかなあ。

明治維新以後、言葉遊びによる共同体をつくった一番の人物は高浜虚子ですよね。そして「ホトトギス」塾長としての虚子の、ああいう老獪さが糸井さんにないのは、いいことだと思う。塾長がみな悪人である必要はないんですよ。(笑)

糸井重里の萬流コピー塾 ぶんこ版 / 糸井 重里
糸井重里の萬流コピー塾 ぶんこ版
  • 著者:糸井 重里
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(472ページ)
  • 発売日:1988-03-01
  • ISBN-10:4167469014
  • ISBN-13:978-4167469016
内容紹介:
セン柳より面白いからマン流なのだ。ワイセツなことを考えてはいけない。広告は世界を変えたが、萬流は広告を変えた。IT革命や南北会談には残念ながら及ばなかったが、ギョーカイの技術革新、… もっと読む
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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋

文藝春秋 1984年8月1日

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