書評

『エデンの園』(集英社)

  • 2021/10/04
エデンの園 / アーネスト・ヘミングウェイ
エデンの園
  • 著者:アーネスト・ヘミングウェイ
  • 翻訳:沼沢 洽治
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(352ページ)
  • 発売日:1990-11-20
  • ISBN-10:4087601943
  • ISBN-13:978-4087601947
内容紹介:
南フランスの小さな町、作家のデイヴィッドと富裕な女キャスリンのボーン夫妻は新婚旅行で滞在中、マリータという美女と出会う。3人の間に愛と不安がはぐくまれ、奇妙な三角関係が生まれた。異… もっと読む
南フランスの小さな町、作家のデイヴィッドと富裕な女キャスリンのボーン夫妻は新婚旅行で滞在中、マリータという美女と出会う。3人の間に愛と不安がはぐくまれ、奇妙な三角関係が生まれた。異性愛と同性愛、男と女の性の逆転が秘められ、エロティシズムに満ちた倒錯的な日々が始まる……。文豪ヘミングウェイが新たな地平を切り拓こうと試みた最後の作品で、死後発見され、衝撃を呼んだ話題の書、ついに文庫化。

三角形の軽さとマチスモ

ヘミングウェイに対しては、確かにぼくもマチョというイメージを持っていた。初めて読んだ作品、『老人と海』におけるサンティアゴ老人とバショウカジキの叙事詩的闘いにはじまり、狩猟、闘牛、ゲリラ戦等々、相手が動物であれ人間であれ、彼の小説には常に闘いが描かれる。暴力があり血が流れ死に満ちている。それを平然と記述するいわゆるハードボイルド・タッチの文体。これに文学外の要素、すなわち猟銃自殺によって完結する伝記が加わって、マチョ・ヘミングウェイというイメージは不動のものとなる。

しかし現在、『エデンの園』が出たことにより、彼のマチョのイメージが崩壊したという。果してそうだろうか。実は、ぼくは今でも彼はマチョだったと思っている。ただしそれは、ガルシア=マルケス、バルガス=リョサ、フエンテスといったラテンアメリカの作家たちをマチョと呼ぶという意味においてである。周知のように、「マチョmacho」という言葉はラテン語のmasculsを語源とするスペイン語で、生物学的男性、一般には動物の「雄」を意味する。これから派生したのが「マチスモmachismo」で、「男性優位主義」あるいは「男らしさのひけらかし」など場合によって様々に訳し分けられる概念であり、一種のイデオロギーともなる。ラテンアメリカに広く見られるマチスモの起源はアラブ・イベリア文化に求められるが、キューバに住み、スペインを旅したヘミングウェイは、その意味で本来のマチスモ世界に常に惹かれていたわけだ。いや、この言い方は曖昧である。本来のマチョとは何かという、解答が困難な問を招いてしまうからだ。たとえば、本来のマチョだったら、文学などは女のするものだといって軽蔑するだろう。アルゼンチンのパンパの田舎町で生れ育ったマヌエル・プイグは、男たちが芸術を女のものとして馬鹿にする風潮に馴染めなかったことを告白している。ところが芸術を愛する家庭とサロンという狭い世界で一生を終えたボルヘスには、彼の世界とは異質な場末のならず者のマチスモに妙に惹かれるところがあった。これに対し、ガルシア=マルケスやバルガス=リョサ、フエンテスらのマチスモに対する感情は、アンビヴァレントである。彼らの描く暴力が精彩を放つのは、その一つの証といえるだろう。彼らは自分たちがマチョであることを知りつつマチスモを批判するのだ。キューバとへミングウェイの関係を中心に書かれたノルベルト・フエンテスの『ヘミングウェイ――キューバの日々』にガルシア=マルケスが序文を寄せているのは、ジャーナリズム、カリブ海、ノーベル賞とともにマチスモを共有しているところからくる親近感によってでもあるだろう。その本の中で、フィデル・カストロは『誰がために鐘は鳴る』をゲリラ戦の教則本として読んだと述べているが、ヘミングウェイの冒険は、彼らを大いに刺激し、鼓舞するのだ。マルケスのノンフィクション、『ある遭難者の物語』で描かれるカリブ海と主人公に『老人と海』の影を認めるのは、必ずしもぼくだけではないだろう。

しかし、マルケスたちが、彼の小説に登場する、男らしさをひけらかす単純なマチョでないことはいうまでもない。しかもマルケスの場合はマチスモの奥深くに分け入り、実はマチョそのものが女々しさを裡に秘めた存在であることを明かしてみせる。そしてそのマチョを育む女たちの方がはるかに男性的であることもまた示すのである。こうした事実を知っていれば、『エデンの園』の「訳者あとがき」にあるように、ヘミングウェイという「この男性誇示型の典型ともいえる作家の内面には、かねてから女性的、同性愛的、あるいは両性願望的側面があったことを、作品、私生活両面から考証した」研究者が現れたとしても、驚くにはあたらない。ヘミングウェイを「古き佳き時代のアメリカ男性の理想を体現した作家とみなす読者層」は、いつだって存在する。だいいちアメリカの大統領とは常にそのようなイメージを必要としてきたのであり、そのもっとも滑稽な例がレーガンだったことは記憶に新しい。パパ・レーガンは西部劇のマチョ・スターだった。アメリカの大統領とはまさしくマチスモの産物なのだ。だから、彼らの作られた(作った)仮面がほころびを見せたとき、ケネディ神話の崩壊という茶番が起きるのである。アレックス・コックス監督の映画「ウォーカー」がアメリカで不評だったのも、コックスがイギリス人の眼でラテンアメリカの側から、アメリカ合衆国の聖なるマチスモ神話を、パンク的におちょくったことが最大の原因なのだ。ガルシア=マルケスは、ラテンアメリカ(ことにカリブ)の民衆が生んだ独裁者を、マチスモの化身として徹底的にグロテスクに描いてみせた。だが、同じマチスモの化身であるアメリカ合衆国大統領をあそこまでグロテスクに描いたアメリカ作家がいるだろうか。それは本質的にはラテン・カトリック文化とアングロ・サクソン・ピューリタン文化の相違に起因する問題なのかもしれない。フォークナーを北アメリカの南の果てに留めているのも、両文化の差異であろう。それは、ヘミングウェイがキューバに暮らし、片言のスペイン語を話し、キューバ人に愛されながらやはり彼を北アメリカの作家たらしめている要素でもある。

彼が『誰がために鐘は鳴る』の中でスペインの後進的文化・社会に鋭い批評を加えている件などを読むと、この作家がいかに闘牛に入れこもうと、「北」の作家であるとつくづく思わせられる。そのような批評性は『エデンの園』にも時折現れる。たとえば、「アフリカはピレネー山脈に始まる」という常套句を最初に聞いたときに感激したと言う妻に対し、主人公は、それが「よくあるお手軽な言い方」であって、「実際はもっと複雑」であることを教える。ところがそれを受けた彼女が、「まだ行ったこともないのに、アフリカがどこから始まるなんて分るわけないわね。とかく人はすぐそういう怪しげなことを言うものだわ」とただちに同調しようとすると、今度は、「いや、分ることは分るんだ」とあたかも水を差すように反論する。そして彼女の「バスクなんてアフリカらしくないもの。少くとも私が聞いてるアフリカとは」という言葉を、「アストゥーリアスやガリーシアだってそうさ」と言って肯定したかに見せて、「でも海岸を離れて奥に入ると、すぐアフリカらしくなる」と否定するのだ。『誰がために鐘は鳴る』のジョーダンの批評に比べれば、まったくの観光者である妻相手ということもあって、主人公である作家、デイヴィッドの言葉は少なく、それほど深く突っ込んではいない。しかし、いささかひいき目にいえば、簡単なやりとりであるがゆえに、相当のスペイン通でなければ書けない会話であることも確かである。かつてのペダンティズムと違い、ほどよく抑制された批評とでもいおうか。

ところでこの妻とのやりとりにおける主人公の態度には注目すべきものがある。なぜなら、ヘミングウェイのかつての作品の主人公の態度とは幾分異なっているからだ。妻をはぐらかすような優柔さがこの男には見られるのである。この態度は『エデンの園』全体に貫かれる。たとえば質問をしかけるのは妻であって彼ではない。彼は明らかに受身にまわっている。夫婦の間にもう一人の女、若いマリータを引き入れるのも、彼ではなく妻であり、形としては彼女が積極的に三角関係を作っていくのだ。ジョーダンにせよ、『武器よさらば』のヘンリーにせよ、最初は彼らの方がプッシュする。もっともたちまち女の方が積極的姿勢に転じるというのがお決まりのパターンなのだが。それにしてもデイヴィッドは最後まで消極的姿勢を崩さない。いわゆるマチョの攻撃性に欠けているのだ。

『日はまた昇る』の性的不能者であるジェイクは別としてこうしたキャラクターは、『誰がために鐘は鳴る』のジョーダンではなく、むしろかつてのゲリラ隊の頭目で今はその座を妻のピラールに譲っているパブロを想い出させる。かつては勇猛果敢なマチョとしてゲリラ戦を闘い、多くの人間を殺してきたパブロは、今はすっかり臆病風に吹かれ、仲間から白い目で見られている。そのあげく、妻に頭目の座を開け渡すのだが、このリーダーシップの交代劇は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』における、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアと妻のウルスラの間に生じるそれに似ている。一族の族長だったホセ・アルカディオが失敗した文明的な外の世界への通路発見に成功することにより、男まさりのウルスラは女族長になるばかりか、後には町全体の支配者にまでなってしまうのだ。その意味で、ヘミングウェイはスペイン語圏のマチスモ集団の特徴をよく捉え得ているともいえる。『誰がために鐘は鳴る』をカストロが愛読する理由のーつはそこにあるかもしれない。挫折した男と強い女が生むマチスモは、ヘミングウェイとマルケスの作品を結びつける。『誰がために鐘は鳴る』でピラールはこう言っている。「女ってものは、男のためにつくられたものなんだ」マチスモのイデオロギーを集約するこの言葉は、ガルシア=マルケスの小説の中で使われてもまったく違和感を感じさせないだろう。

しかし、問題は、この言葉がフィクショナルな存在として作者から完全に独立した人格の考え方のみを表わしているのかどうかということである。つまりそれは、ヘミングウェイ自身の考えの一部ではないのか。作者はしばしば分身を登場させ、自己の考えを代弁させるが、その分身は一人とは限らない。自らの葛藤を複数の登場人物に分担させることは珍しくない。その意味でいえば、女としてマチスモを体現しているピラールが、ヘミングウェイのマチョの部分を担っていてもおかしくない。こう思えるのも、闘牛士に関する彼女の意見が、あまりに鋭い批評になっているからだ。「安全」をめぐってパブロが闘牛士の例を引き合いに出して自論を述べると、彼女は即座にそれを論破してしまう。闘牛士との付き合いが彼女に自信に満ちた言葉を言わせるのだが、おそらくそれはヘミングウェイ自身が闘牛士から聞いた言葉だろう。闘牛愛好家である彼が、いわば二人に分かれて意見を闘わせているのだ。

このような役割分担が、『エデンの園』にもあることに気づいた。この作品は、伝記性が強いと言われ、訳者はたとえば主人公三人の関係をヘミングウェイと最初の妻ハドリー及び二番目の妻ポーリーンが行なった一九二六年の旅行時の関係と類似していることを指摘している。彼女たちの実像がどうであったかは調べていないので知らないが、ことによるとかなり作中人物に近いのかもしれない。しかしぼくはむしろ、この小説が本来は三角関係ではなく、二組の夫婦が形作る四角関係を基盤に持っていたということに注目したい。というのも、再三引用している『誰がために鐘は鳴る』の主要人物四人の関係にそれが似ていたのではないかと想像されるからだ。

図式化すれば、パブロとピラール、ジョーダンとマリアという二組のペアが存在し、その中でさらに複雑な関係ができあがっている。その中で中心になっているのは、ジョーダンではなく実はピラールである。つまり四人の中で他の三人に対しすべてベクトルを持っているのは彼女だけなのだ。彼女はかつてパブロに惹かれ、今はマリアを愛し、ジョーダンに好意を抱いている。この四角形を動かしているのも彼女である。パブロをマリアに寄せつけず、ジョーダンとマリアを結びつけるのだ。『エデンの園』でこれに似た役割を捜せば、当然ながら妻のキャスリンということになるだろう。彼女はマリータと夫を結びつけ、自分もまたレズビアン関係を作る。この関係を作っておきながらやがて身を引き、その結果夫とマリータの関係だけが残るのだが、果してそれはハッピーエンドだろうか。『午後の死』に「二人の人間が愛し合うなら、ハッピーエンドはあり得ない」という言葉がある。その言葉がヘミングウェイの小説に貫かれているとすれば、夫とマリータは愛し合っていないことになる。つまり、彼は去って行った妻を愛していなければならないのだ。それともヘミングウェイは、本当に新しい愛のあり方を追求し、この小説で展開しようとしたのだろうか。

当り前のことだが、一見作風が変わったかに見えながら、『エデンの園』が作者の以前の作品と多くの共通点を持つことは、すでにいくつかの例を挙げて示した。その他すぐに目につく例としては、訳者も指摘するヘア・フェティシズムがある。妻キャスリンがショートカットにし、それを夫にも要求し、さらにマリータが真似る。このショートカットは『日はまた昇る』のブレットのチャームポイントであり、『誰がために鐘は鳴る』のマリアもまた強制されたものとはいえ、ショートカットで登場している。ジョーダンは最初ロングヘアでないことをマイナスとみなしているが、やがてビーバーの毛皮のような短い髪を美しいと言い、それを触るのを好む。彼は次のように言う。

「ぼくは考えたんだが、マドリードへ行ったら、ふたりで床屋へ行って、ぼくのと同じように上手に横とうしろを刈らせよう。のびるまでのあいだは、町を歩いても、かえってそのほうが美しく見えるかもしれない」

もっとも、最終的にはガルボのような肩までの長さがいいということになるのだが、しかしここでいうショートカットは、まさしく『エデンの園』でキャスリンが自分に施し、さらに夫に求めたものではないか。ジョーダンの提案に対し、マリアは、彼と同じにしたいという。それは『エデンの園』のマリータの願望でもある。ここには人物を交代させながらもヘミングウェイのヘア・フェティシズムとともに性転換あるいは両性具有願望のようなものが窺える。

これは結果論に聞えるかもしれないが、『移動祝祭日』で、「同性愛については、ある先入主をもっていたことを認めねばならない」と述べているヘミングウェイだが、彼の拒否しているのが「原始的な姿」の同性愛であるとすれば、むしろスタインの説くレズビアンには興味を抱いていたとしてもおかしくない。また性転換についても彼は『誰がために鐘は鳴る』でジョーダンとマリアの間で会話をさせている。マリアが、もし彼が望むのなら喜んで入れ代わると言うのに対し、ジョーダンは、代りたくないと言い、また一体になっても互いがもとの自分であった方がいいと述べる。このテーマが『エデンの園』では実践されるわけである。ただこの小説は、編集者によって手を入れられ、いかにも現代風の三角関係を扱うことにより、ひどく通俗的で軽くなってしまっている。願わくばもっとも困難であったろう四角関係の中でマチョの役割転換をはじめ様々のことが行なわれていたらと思うのだが。誰か別の編集者が、別の『エデンの園』を作ってはくれないものだろうか。
エデンの園 / アーネスト・ヘミングウェイ
エデンの園
  • 著者:アーネスト・ヘミングウェイ
  • 翻訳:沼沢 洽治
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(352ページ)
  • 発売日:1990-11-20
  • ISBN-10:4087601943
  • ISBN-13:978-4087601947
内容紹介:
南フランスの小さな町、作家のデイヴィッドと富裕な女キャスリンのボーン夫妻は新婚旅行で滞在中、マリータという美女と出会う。3人の間に愛と不安がはぐくまれ、奇妙な三角関係が生まれた。異… もっと読む
南フランスの小さな町、作家のデイヴィッドと富裕な女キャスリンのボーン夫妻は新婚旅行で滞在中、マリータという美女と出会う。3人の間に愛と不安がはぐくまれ、奇妙な三角関係が生まれた。異性愛と同性愛、男と女の性の逆転が秘められ、エロティシズムに満ちた倒錯的な日々が始まる……。文豪ヘミングウェイが新たな地平を切り拓こうと試みた最後の作品で、死後発見され、衝撃を呼んだ話題の書、ついに文庫化。

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