来る2022年10月14日は、新橋・横浜間に日本で初めての鉄道が開業してから150 年という記念すべき日になります。鉄道といえば電車に注目しがちですが、この150年の間にじつに多様な駅舎が、さまざまな目的のためにつくられてきました。そんな駅舎の魅力に気づいてもらうべく、個性的な数々の首都圏の駅舎を集めた書籍『東京の名駅舎』から、旧新橋停車場と東京駅、両国駅について抜粋で紹介いたします。
みんなが知っていて、みんなが見過ごしている施設
駅舎という施設は、恐らくほとんどの人が通勤・通学や旅行などで利用した経験のある、私たちの日常生活に密着した身近な建築です。しかしながら駅舎と一口に言っても、建設された時代や場所、建築の規模や構造はもちろんのこと、運営する鉄道会社、所属する路線、列車の運行本数、駅の乗降人員、プラットホームとの関係など、鉄道ならではの諸元も多岐に渡り、本書で取り上げた駅舎だけを見ても、そのバリエーションの豊富さを理解することができます。一方で、他の用途の施設と建設のプロセスを比べてみると、わが国の駅舎は非常に特殊な建築であるとも言えます。たとえば海外において駅や線路が工事中で、鉄道が一定の期間に渡って運休中だった場面に遭遇したことのある方もいるでしょう。ところが、日本における駅の工事は、鉄道を止めずに運行しながらという非常に難しい条件下で行われることが大半です。このことは世界的に見ても日本の駅舎が特別な存在で、言い換えるならば、日本的な「おもてなし」の精神を表しているものだと考えられるのではないでしょうか。
日本の鉄道の始まり、新橋駅
我が国で最初に開業した鉄道路線の起点として1872 年に開業した旧新橋停車場。関東大震災で焼失した後、別の駅舎が再建され長い年月が経過しました。しかし、建物があった汐留地区の埋蔵文化財調査が行われた際に、開業当時の駅舎の基礎やプラットホームの遺構が発見されます。そこで、この遺構を保存し、後世に伝えるため、開業時と同じ場所に駅舎の外観が復元されることになりました。そうして 2003 年に開業当時の姿が甦り、鉄道の歴史や文化に触れることが出来る展示室となりました。外には駅舎に続く石積みのプラットホームと線路も再現。線路の起点には鉄道発祥の地の証である「0 哩標識」も設置されていて、汐留地区の高層ビル群の中で、明治時代の雰囲気を漂わせる憩いのスポットになっています。駅舎建築の横綱、東京駅
1914 年に開業した東京駅は、関東大震災にも耐え、1945 年の戦災で一部が焼失するまでの間、首都東京のシンボルとして雄姿を留めていました。戦後の復興工事によって、創建時の 3 階建てのドーム屋根は、2階建ての八角屋根に変わり、以来その姿で約 60 年に渡って親しまれてきましたが、2003 年に国の重要文化財に指定され、2012 年に創建当時の姿に甦りました。創建時の東京駅の外観は 19 世紀前期にイギリスで流行していた「クイーン・アン様式」と呼ばれるスタイルに近いデザインで、これは設計者の辰野金吾がイギリス留学中に受けた影響によるものです。工事に際しては、未来へ継承すべき貴重な歴史的建造物として、残存していた部分を可能な限り保存するとともに創建時の姿に復原されています。復原されたドームの見上げ(内部)には、兜や剣、鳳凰など日本的なモチーフのデザインが多く用いられていますが、特に特徴的なものは八角形の角に設けられた干支のレリーフで、干支が示す方位に合わせて12 支のうち 8 支が設置されています。西洋風の外観に対してドームの内観には和の要素が取り入れられていて、「日本の中央駅」を意識していたことが感じられます。天井までの高さは約 28 mもあり、レリーフには「黄卵色」と呼ばれる色など鮮やかな色が塗られていて、明るく開放的な空間です。
東京駅は歴史的建造物を現代の要求に合わせて進化しながら、これからも使い続けられていくことでしょう。
合理的なデザインながらもレトロ感のある両国駅
総武鉄道の「両国橋駅」として鉄道省の設計で 1904 年に開業しましたが、総武鉄道の本社機能も兼ねていた初代の木造駅舎は関東大震災によって焼失し、1929 年に現在の2 代目の駅舎に建て 替えられ、1931 年に現在の「両国駅」に改称されました。この建て替えによって、3連アーチ型の大きな窓と中央の丸時計の外観が印象的な鉄筋コンクリート造の駅舎となりますが、装飾的な要素を排除した合理的なスタイルは、同じ時期に完成した上野駅( 2 代目)とも共通するデザインも見受けられます。[書き手]
大内田史郎(工学院大学建築学部建築デザイン学科教授)、傍島利浩(写真家)