解説

『明治文壇の人々』(ウェッジ)

  • 2024/04/24
明治文壇の人々 / 馬場 孤蝶
明治文壇の人々
  • 著者:馬場 孤蝶
  • 出版社:ウェッジ
  • 装丁:文庫(456ページ)
  • 発売日:2009-10-20
  • ISBN-10:4863100566
  • ISBN-13:978-4863100565
内容紹介:
英文学者・随筆家の馬場孤蝶が同時代の文学者たち―鴎外、漱石、透谷、藤村、上田敏、山田美妙らの人物スケッチ、思い出を綴った随筆集。とりわけ交遊の深かった斎藤緑雨、樋口一葉についての文… もっと読む
英文学者・随筆家の馬場孤蝶が同時代の文学者たち―鴎外、漱石、透谷、藤村、上田敏、山田美妙らの人物スケッチ、思い出を綴った随筆集。とりわけ交遊の深かった斎藤緑雨、樋口一葉についての文は、彼らの文学を知るうえで欠くことのできない第一級の資料である。また、本文に引用された一葉と孤蝶との往復書翰からは、一葉の「恋人」に擬せられた二人の微笑ましい交遊ぶりが窺える。

目次
自然主義を育ぐくむ文界
明治時代の閨秀作家
北村透谷君
上田敏君
鴎外大人の思出
更に衰へざりし鴎外大人
漱石氏に関する感想及び印象
斎藤緑雨君
山田美妙氏を憶ふ
あの頃の川上眉山君〔ほか〕

リアルタイムのまなざし

馬場孤蝶の墓は兄馬場辰猪と並んで谷中墓地乙十号左五側にある。

寛永寺の霊園を背にオベリスクの形の大きな墓が二基、並んで建っている。

私はあるとき、本郷ペリカン書房主人品川力さんが御連れになった立派な顔立ちの紳士を谷中にご案内したことがあった。あとでその方は馬場孤蝶の孫だと知った。

本書「明治文壇の人々」は昭和十七年、三田文学出版部から発刊された。明治の文壇とその雰囲気を回顧した文章や講演筆記をまとめたもので、三、四十前の明治をリアルタイムで見てきた人ならではの臨場感に満ちている。鴎外、漱石、透谷、藤村、上田敏、山田美妙、川上眉山、その中でとくに明治二十九年に二十四歳で逝った樋口一葉、明治三十七年に三十七歳でなくなった斎藤緑雨に付いて思いが深い。

とくに一葉に付いては全体の五分の二を占めるほど何回も述べており、いささか重複もあるが、その繰り返しの憶い出し方に、孤蝶が何を印象深く思っていたのかがよく現れていて興味深い。

馬場孤蝶は本名を勝弥といい、明治二年(1869)年十一月八日、現在の高知市に生まれた。土佐藩士馬場来八の四男である。小さい頃は病弱で就学が遅れた。

明治十一年、一家で上京し、十歳で下谷の忍岡小学校に入り、十六歳で共立学校(いまの開成学園)、さらに二十歳で明治学院に入学した。北村透谷は一級上、戸川秋骨、島崎藤村とは同期、一級下に岩野泡鳴がいる。卒業後、高知の中学教師になった。

明治二十六年、北村、戸川、島崎、平田禿木らと「文学界」を創刊、詩、小説、翻訳を発表。

明治二十七年三月十二日、まだ下谷区竜泉で小間物屋をやっていた樋口一葉を訪ねる。そのときの一葉日記に、「孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨非謌の士なるよし。語語癖あり。不平不平の言葉を聞く。うれしき人也」と書いている。女である身を嘆き、英雄豪傑に憧れた一葉にとって、福沢諭吉門下で、ボストン大学や英国に留学、自由民権運動闘士として雄弁を謳われながら、爆発物取締規則違反の無実の罪でとらわれ、フィラデルフィアに客死した孤蝶の兄、馬場辰猪は仰ぎ見る人であったろう。十九歳も歳の離れた孤蝶もまた兄の面影を宿した丈高き美男子であった。それのみならず、兄を思わせる時局に流されない、まつろわぬ言葉に幕臣の父を持ち、貧困のうちに生きていた一葉は胸がすく思いをしたのであろう。

一葉が丸山福山町に移ってからは行き来も頻繁になる。彼が育ったのは本郷菊坂町で、そのころは本郷龍岡町に移っていた。土地勘もあり、一葉の通った本郷の寄席若竹にも親しんでいる。ちょうど三遊亭円朝の全盛であった。「柳町、指ヶ谷町から白山下までが水田であつたことは、さう昔のことではない」などという言い方にも実感がこもっている。つまりその田んぼを埋め立てた新開の町の鰻屋の離れに一葉一家は越してきて、その町の銘酒屋を舞台に「にごりえ」を書いたのである。また本郷法真寺の一葉が子供の頃いた家に「画家として有名であった原田直次郎といふ人が住んで居つた」というのも貴重な証言だ。講演速記のためか法真寺が法泉寺、西洋画家が日本画家になったりしているとはいえ。

一葉と弧蝶のやりとりには恋愛ごっこというべき戯れが見て取れる。友人の戸川秋骨は「孤蝶子の君をおもふこと一朝一夕にあらず」とはやすし、孤蝶は「君をばただ姉君のやうに思ふよ」と顔を赤らめて「夏はやし女あるじが洗ひ髪」の句を詠んでいる。一葉もまんざらではない。「所座するものは紅顔の美少年馬場孤蝶子。はやく高知の名物とたたえられし兄君辰猪が気魂を伝へて、別に詩文の別天地をたくはゆれば、優美高潔兼ね備へて、をしむ所は短慮小心、大事のなしがたからん生まれなるべけれども歳はいま二十七」(一葉日記 明治二十八年五月十日)。リズミカルな文章もみごとだが、二十三歳のこの娘の辛辣極まりない直感に圧倒される。実にその通り、弧蝶は兄のようには大事をなさず、小説の世界で天才をも発揮せず、そのかわり英文学者としておだやかで気持ちのよい一生をまっとうした。「気の利いた化物なら。もうとつくに引っ込む筈」と自分でもいう通りである。

明治二十八年秋、滋賀の彦根中学に教師として赴任、一葉と手紙の往復があり、貴重な資料となっている。本書でも弧蝶が「樋口をば様」とよんだことに一葉が「かつやをぢ様」と応えている。男女の別がありながら、明治にはめずらしい、ざっくばらんな隔てのない交際ができているのは弧蝶の人柄であろう。

翌二十九年の十月末、一葉が結核でもう長くはないとの知らせを受けた弧蝶は上京して見舞った。呼吸は苦しそうで、耳は遠くなり、頬はぼーっと赤みが差していた。来春また来ます、という弧蝶に、この次おいでになる頃には私は石になっていましょう、と一葉は言ったそうである。

一葉の死後、母も姉もなくなってひとりになった妹邦子を気にかけ、「一葉会」を結成してなき女友達をしのんだ。それについては面白い話があって、漱石門下の森田草平は弧蝶を兄のように慕っていたが、自分が本郷に借りた家の様子を話すと「それはどうも一葉女史の家ではないか」といってさっそく行ってみた。それで草平と協力して遺族の樋口邦子、与謝野晶子、鉄幹、小山内薫、岡田八千代、上田敏、生田長江などが集まってしのぶ会が催された。大正十一年、一葉の父母のふるさとである塩山に一葉追悼の碑が建った時にも参加している。

一葉は竜泉で小間物屋の商いをすることを「文学は糊口の為になすべきにあらず」と正当化したが、弧蝶は、本書では「自分の才能に信念を持っていなかった」と厳しい。また尾崎紅葉に紹介されていたら「一葉女史はもっと早く文名が出たらう」とも言っている。

ひとりの愛された文人のなくなったあとにはさまざまなことが起こる。一葉の遺品を大事に保存した妹、その相談を受けて日記の所在が明らかになり、斎藤緑雨が預かったのを弧蝶は緑雨が同じ病気で一葉の10年後に死ぬ際に托された。自分について一葉が書いたことを読めば、弧蝶の胸に波立つ感情もあったであろう。しかし「私などもあの野郎度々出て来るが、俺に惚れているらしいといふやうなこともありますが、是は何れでも宜しい」と我が身を道化にして一葉をかばってみせた。しかしあまり日記の刊行に乗り気でなかった緑雨なきあと、鴎外、露伴など当事者間を駆け回って刊行が実現したのは「馬場孤蝶の誠実な政治力と友情の結果」と和田芳恵がいう通りである。

もう一人、斎藤緑雨は一葉によれば「痩せ姿の面やうすご味を帯びて、唯口もとにいひ難き愛敬あり」(日記明治29、5、24)であるが、弧蝶は「余程妙なひねくれた性質を持って居った人で、又一面非常に面白い人であった」といっている。一葉と同じ病を持ち、駒込林町にいたのに、人の訪問を煩わしく思って、本所横網町に引っ越して、そこで逝った。死亡自筆広告を筆写し、葬式の段取りを整えたのは弧蝶であった。それをしてくれる人として緑雨には頼む所があったのであろう。いずれの場合にも弧蝶の筆には気負いや恩着せがましさや自慢がまったくなく、さわやかである。

その他にも「上田君に就いては、幾ら考えても逸事と云ったやうなものが思い浮かびません」。鴎外大人は「如何にもやわらかな暖かな、率直な人」、漱石は「長者の風がある人、客扱ひのうまい人」、なかなか説得力のある見方ではないだろうか。

弧蝶は三十代の一時期を銀行につとめ、それから慶応義塾の教授に迎えられた。「三田文学」にモーパッサン「脂肪の塊」、ブルージェ「島人」、ツルゲーネフ「狼」、続いてトルストイ「戦争と平和」(本邦初訳)、ホメロス「イリアッド」などを英訳から訳した。後進を細やかに指導し、門下の佐藤春夫は「父母につぐ恩寵」を受けたと追悼文でいう。弟子に久保田万太郎、南部修太郎、小島政二郎、水木京太などがいる。講義の帰りには必ず銀座にのし、カフェパウリスタで談笑した。弧蝶の家はさながらサロンで荒畑寒村、大杉栄、安成貞雄、生田春月らが出入りしていた。「先生は安成貞雄と青山菊枝さんの才能を愛して居られた」という。

明治の末に閨秀文学会の講師をしていた弧蝶が津田の英学塾を出た青山を見いだしたのである。青山は一葉日記の浄書も手伝うが、山川均と結婚、社会主義の理論家として母性保護論争にくわわり、戦後、初代の労働省婦人局長を務めた。「おんな二代の記」「幕末の水戸藩」は名著である。この文学会には平塚らいてうも参加して居り、雑誌「青鞜」の母体ともなったのであった。

弧蝶は育ちは東京なので、渋い着流しに角帯といった江戸好みで、「気取りたくても気取れない人」(森田草平)であった。パイプを愛用し、夏みかんを好んだ。煙草のニコチンの中和剤のつもりだったらしい。上田敏と反対にすこぶるエピソードに富み、そのいずれもが慕わしい。昭和十五年六月二十二日没、七十二歳。奇しくも兄辰猪と同じ命日となった。
明治文壇の人々 / 馬場 孤蝶
明治文壇の人々
  • 著者:馬場 孤蝶
  • 出版社:ウェッジ
  • 装丁:文庫(456ページ)
  • 発売日:2009-10-20
  • ISBN-10:4863100566
  • ISBN-13:978-4863100565
内容紹介:
英文学者・随筆家の馬場孤蝶が同時代の文学者たち―鴎外、漱石、透谷、藤村、上田敏、山田美妙らの人物スケッチ、思い出を綴った随筆集。とりわけ交遊の深かった斎藤緑雨、樋口一葉についての文… もっと読む
英文学者・随筆家の馬場孤蝶が同時代の文学者たち―鴎外、漱石、透谷、藤村、上田敏、山田美妙らの人物スケッチ、思い出を綴った随筆集。とりわけ交遊の深かった斎藤緑雨、樋口一葉についての文は、彼らの文学を知るうえで欠くことのできない第一級の資料である。また、本文に引用された一葉と孤蝶との往復書翰からは、一葉の「恋人」に擬せられた二人の微笑ましい交遊ぶりが窺える。

目次
自然主義を育ぐくむ文界
明治時代の閨秀作家
北村透谷君
上田敏君
鴎外大人の思出
更に衰へざりし鴎外大人
漱石氏に関する感想及び印象
斎藤緑雨君
山田美妙氏を憶ふ
あの頃の川上眉山君〔ほか〕

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
森 まゆみの書評/解説/選評
ページトップへ