前書き
『生きのびるための現代少年マンガ論: 『進撃の巨人』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』を読み解く』(草思社)
なぜ、現代の少年マンガはとても残酷で理不尽なのでしょうか。そしてそれにもかかわらず、なぜこれほどまで熱狂的に支持されているのでしょうか。『進撃の巨人』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』…これらには、現代の若者が現実に抱く逃れがたい運命や絶望感が深く関係していて、それ故に若者に大きな支持を得ているのではないでしょうか。この4つの大ヒット少年マンガについて、現代の社会的現実がどのようにストーリーに組み込まれているのか、その作品ごとに込められた意味を読み解いた『生きのびるための現代少年マンガ論』から、「はじめに」を抜粋して紹介します。
何に対してか。
生まれた時から何かを理不尽に奪われている、という運命に対して。
自分にとっての自由を生きる前に、この世界や先行世代からの膨大な負債や借金を背負わされている、という絶望に対して。
たとえば『チェンソーマン』の物語は、主人公の少年デンジが借金返済の計算をするシーンからはじまる。デンジは死んだ親の借金を背負わされ、小学校にも行けず、内臓もすでにいくつか売った。日々食べるものさえろくにない。
デンジは、たまたま出会った瀕死の「チェンソーの悪魔」(ポチタ)と契約し、他の悪魔を殺すことを生業とするデビルハンターのアルバイトをはじめるが、根本的に「頭」が悪いために、借金を完済できる見込みもなく、都合よく利用され、搾取され、やがては使い捨てにされていく。文字通りの闇バイトである。
デンジの「夢」はいわゆる「普通」の生活である。「普通」と言っても、それは極めて低水準である。デンジは日本国憲法が謳う「健康で文化的な最低限度の生活」未満の、貧弱な幸福のイメージしか持ちえない。
それは現代先進国の福祉国家の失敗、あるいは社会的な相互扶助の不備による「貧困」……というよりも、もはや〈最底辺〉――私はあえてこの言葉を使いたいのだが――というべきものだ。たんに経済的または文化的に貧しいのではない。欲望そのものが動物的に貧しく、最底辺なのである。実際にデンジは作中でしばしば「犬」扱いされる。
人間と鬼たちとの戦いを描く『鬼滅の刃』においても、少年少女たちは、それが生まれついての宿命であるかのように、理不尽に生命や家族を奪われていく。本論の中であらためて論じたいが、たとえば、上弦の陸(ろく)である妓夫太郎(ぎゅうたろう)と堕姫(だき)という鬼の兄妹が強いられた境遇は、私に『チェンソーマン』のデンジのことを自然に連想させた(デンジが悪魔であるポチタを抱きしめるシーンは、幼い頃の妓夫太郎が雪の中、堕姫=梅を抱きしめるシーンを思わせる)。
炭治郎たちが貧しくも温かい家族のもとに生まれたのに対し、妓夫太郎と堕姫は、遊郭の中でもさらに〈最底辺〉の環境に生まれた。妓夫太郎は、生まれる前にも、生まれてからも、親に何度も殺されそうになり、枯れ枝のように弱い体で必死に生き延びてきた。仕事で不在だったため妹の梅を守れなかった妓夫太郎は、侍に焼かれて黒焦げになった妹の体を抱きしめて、天に向かって絶叫する。「やめろやめろやめろ‼/俺から取り立てるな/何も与えなかったくせに取り立てやがるのか/許さねえ‼ 許さねえ‼/元に戻せ俺の妹を‼/でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」(第96話)。彼ら兄妹にとって「誰も助けちゃくれない」のは「いつも通りの俺たちの日常」だ。
「どんな時だって全てが俺たちに対して容赦をしなかった」。彼らの境遇は、親や家族から虐待を被ったり、生まれた瞬間から借金やローンや税金でがんじがらめになったりして、貧困状態の連鎖から抜け出せない子どもや若者の人生のようでもある。
人生とは結局そんなものではないのか、という残酷な諦念が『鬼滅の刃』の物語にはある――煙草を吸うような気軽さで人々の命が消えていく『チェンソーマン』の物語も同様である。
もちろん鬼になった者たちに限られない。妓夫太郎と堕姫という鬼の兄妹は、炭治郎と禰豆子の兄妹の裏サイドのようなペアである。禰豆子が鬼になった時、たまたま出会ったのが鬼殺隊の人間だったため、炭治郎たちは人間にとどまることができたが、堕姫(人間のときの名前は梅)が全身を焼かれ死にかけたとき、たまたま出会ったのが鬼の童磨(どうま)だったため、妓夫太郎と堕姫は鬼になった。それはたんなる偶然であり、紙一重だった。
『鬼滅の刃』の世界では、鬼たちは家庭の外部から襲ってくるとは限らない。家族の中の誰かが、突然鬼になるかもしれない。これは現代社会のリアリティでいえば、やはり、家族による虐待やDVを思い起こさせる。あるいは、カルト宗教や闇バイトに家族が突然巻き込まれてしまったとすれば――。実際に『鬼滅の刃』では、家族の誰かが突然鬼になり、その家族を自らの手で殺さざるをえず、罪悪感やトラウマを抱えたまま鬼殺隊に入る、というパターンがしばしば反復される。DVのサバイバーや宗教二世の家族問題の観点から『鬼滅の刃』を読むことも可能だろう。
「親ガチャ」という言葉がある。自分の生まれをガチャガチャ(カプセルトイ)や電子くじにたとえた言葉である。もともとは二〇一七年頃にネットスラングとして流通し、二〇二一年に「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに入り、同年の「大辞林が選ぶ新語大賞」にも選ばれた。
親ガチャという言葉には、次のような含意がある。人は、自分がどんな親のもとに生まれてくるか自分で選択することはできない(出生の偶然性)。それはガチャ=くじのようなものである。
たとえ親を選べなくても、個人の能力や努力によって生まれの不運・不遇を乗り越えられるなら、親ガチャを過度に嘆く必要はない。しかし、現代社会は残酷なまでに不平等であり、生まれの不運・不遇を個人の意志や努力によってはそもそも乗り越えることができない。少なくともそれは著しく困難である。たとえば親が貧困であればその子どもたちも貧困になり、また教育や社会経験などの人的資本の面でも不平等・不公正が継承され再生産されてしまう(経済的格差の固定化)。あるいは、虐待やDVを行う親のもとに生まれてしまえば、根本的な自尊心や自己愛を養うことができず、その後の人生を不幸なものとして送らざるを得ない。したがって、最初の出生の偶然性、親ガチャの失敗によって人生はあらかじめ決まってしまう。
しかも、ソーシャルゲームの世界とは違って、人生はリセットマラソン(最初のガチャで失敗した場合、ゲームを一度リセットし、成功するまでガチャを繰り返すこと)もできない。残機一機でリプレイ不可、ガチャに失敗(親ガチャとか学校ガチャとか)してもリセマラ禁止。人生とはクソゲーである……。
親ガチャという言葉の背景には、すなわち、「自分の個人的な努力によっては状況を変えられない」(1)、「自分たちが生きる社会が公正なものに変わることはありえない」(2)という二重の諦念があるのであり、そうした世界のもとでは親ガチャ=出生の偶然性によって人生の幸不幸の全てが決まってしまう、という無力感があるのだ。
ライターで音楽ブロガーであるレジーは著書『ファスト教養』で、ひろゆき、中田敦彦、ホリエモンなどのインフルエンサーを追い求める人々の欲望を分析している。手っ取り早く教養を得ようとし、コスパやタイパ、ワンチャンを重視する「ファスト教養」と呼ばれるものは、地道な努力よりも偶然や運に左右されがちな現代社会――ビジネス界隈で「VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代」と呼ばれる――におけるサバイバルツールとして機能している。
たんに地道に努力するだけではなく、最小限の力で最大限の成果を上げていかなければ、そもそも現代社会の中では生き残ることができないのであり、成長し続けなければ競争から脱落してしまう。たんに楽をしたいという話ではない。
彼ら彼女らにとってはおそらく、資本主義自体が(機会平等と対等な競争に基づきwinwinをもたらす市場経済ではなく)あたかも気候変動や環境破壊のように感じられている。だからこそ、民主主義的で公正なルールに従わず、その裏をかくようなチート的な姿勢こそが、若者たちにとっては「合理的」に感じられるのだ。
あるいはライターの稲田豊史のベストセラー『映画を早送りで観る人たち』の議論も、若者たちを強いる宿命的な現代的感覚をとらえたものだろう。稲田の調査によれば、若い世代ほど映画を早送りで観ようとする。結末やあらすじを事前に調べる。若者たちはなぜそれほど効率=コスパを重視するのだろうか。端的に時間がなく、お金がなく、心の余裕がないからである。情報過多で流動的なファスト社会の中で、自分だけの個性や結果を効率的に求めていかざるをえないのだ。
そこには「生まれながらに奪われている」という感覚がある。
縁故的な資本主義によって負債と借金を背負わされ、まじめな賃金労働の価値は下落し、生活全体を覆うネオリベラリズムと現代的官僚制の中で、慢性疲労と鬱状態と依存症を強いられていく――。そこではコスパやタイパはやはり「合理的」な生存戦略なのである。
私たちは人生の中で様々な選択を行い、様々な偶然(=ガチャ)を経験する。学校の選択、友人の選択、仕事の選択……。それらの選択がある程度までは本人の努力や意志によって結果を変え得るのに対して、自分がどんな親から生まれるかという出生については主体は何ひとつ関与できない。その意味で、出生の偶然性は他の様々な偶然性とは決定的に異なる「もっとも根源的な偶然性」にほかならない(戸谷洋志『親ガチャの哲学』)。
逆に言えば、私たちは「生まれた家庭によってその苦境に陥ることがあらかじめ決定されていたのであり、それを変えることができなかったのは、自分のせいではない」と考えることができる。親ガチャの失敗を恨むことで、自分の不幸や不遇の責任を免除できる。これはある種の厭世的で悲観的な「宿命論」である。
しかし「このような厭世観が普及した背景には、経済格差の固定化などによって、自分の人生を自分で変えられるという自信が私たちから失われていった、という社会的な情勢の変化が指摘されています。どうあがいても自分の人生を好転させられない状況が、ある種の宿命論を誘発するのです」(同)。
親ガチャという宿命論は、苦境に陥った人が、自分の苦境を理解し受け入れ、自分を納得させるために選び取るものなのであり、「そう考えでもしなければ生きていくことさえままならなくさせ」られている、という厭世的で悲観的にならざるをえない社会状況があるのである。
人の幸不幸は生まれによってすでにあらかじめ決められており、自分の個人的な能力や努力によってはどうにもならない、この社会を変えることもできない、という若者たちの宿命論を単純に批判し否定することはできない。そうした考えを抱くこと自体が現代社会を生き延びるための生存戦略なのだから。しかし、そうした宿命論にとらわれることは、根源的な無力感によってますます自縄自縛になり、自分の能力や努力の意味を否定し、自己愛や自己尊重の感情を縮減させていくことでもあるだろう。
それならば、そうした無力感や宿命感を受け止めた上で、現代の若者たち、少年少女たちが、残酷で理不尽なこの世界を正しく自由に生き抜くためには、どうすればいいのだろうか。
私は本書において、現代的な少年マンガのキャラクターたちの運命と、私たちが生きる現代社会の構造的な変化とを、同時に、行きつ戻りつしながら論じてみたい。
[書き手]杉田俊介
1975年生まれ。批評家。主な著作に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『ジョジョ論』(作品社)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(集英社新書)、『橋川文三とその浪曼』(河出書房新社)、『神と革命の文芸批評』(法政大学出版局)、『男がつらい!』(ワニブックスPLUS新書)など。
マイナスからスタートする主人公たち
少年少女たちは戦っている。何に対してか。
生まれた時から何かを理不尽に奪われている、という運命に対して。
自分にとっての自由を生きる前に、この世界や先行世代からの膨大な負債や借金を背負わされている、という絶望に対して。
たとえば『チェンソーマン』の物語は、主人公の少年デンジが借金返済の計算をするシーンからはじまる。デンジは死んだ親の借金を背負わされ、小学校にも行けず、内臓もすでにいくつか売った。日々食べるものさえろくにない。
デンジは、たまたま出会った瀕死の「チェンソーの悪魔」(ポチタ)と契約し、他の悪魔を殺すことを生業とするデビルハンターのアルバイトをはじめるが、根本的に「頭」が悪いために、借金を完済できる見込みもなく、都合よく利用され、搾取され、やがては使い捨てにされていく。文字通りの闇バイトである。
デンジの「夢」はいわゆる「普通」の生活である。「普通」と言っても、それは極めて低水準である。デンジは日本国憲法が謳う「健康で文化的な最低限度の生活」未満の、貧弱な幸福のイメージしか持ちえない。
それは現代先進国の福祉国家の失敗、あるいは社会的な相互扶助の不備による「貧困」……というよりも、もはや〈最底辺〉――私はあえてこの言葉を使いたいのだが――というべきものだ。たんに経済的または文化的に貧しいのではない。欲望そのものが動物的に貧しく、最底辺なのである。実際にデンジは作中でしばしば「犬」扱いされる。
人間と鬼たちとの戦いを描く『鬼滅の刃』においても、少年少女たちは、それが生まれついての宿命であるかのように、理不尽に生命や家族を奪われていく。本論の中であらためて論じたいが、たとえば、上弦の陸(ろく)である妓夫太郎(ぎゅうたろう)と堕姫(だき)という鬼の兄妹が強いられた境遇は、私に『チェンソーマン』のデンジのことを自然に連想させた(デンジが悪魔であるポチタを抱きしめるシーンは、幼い頃の妓夫太郎が雪の中、堕姫=梅を抱きしめるシーンを思わせる)。
炭治郎たちが貧しくも温かい家族のもとに生まれたのに対し、妓夫太郎と堕姫は、遊郭の中でもさらに〈最底辺〉の環境に生まれた。妓夫太郎は、生まれる前にも、生まれてからも、親に何度も殺されそうになり、枯れ枝のように弱い体で必死に生き延びてきた。仕事で不在だったため妹の梅を守れなかった妓夫太郎は、侍に焼かれて黒焦げになった妹の体を抱きしめて、天に向かって絶叫する。「やめろやめろやめろ‼/俺から取り立てるな/何も与えなかったくせに取り立てやがるのか/許さねえ‼ 許さねえ‼/元に戻せ俺の妹を‼/でなけりゃ神も仏もみんな殺してやる」(第96話)。彼ら兄妹にとって「誰も助けちゃくれない」のは「いつも通りの俺たちの日常」だ。
「どんな時だって全てが俺たちに対して容赦をしなかった」。彼らの境遇は、親や家族から虐待を被ったり、生まれた瞬間から借金やローンや税金でがんじがらめになったりして、貧困状態の連鎖から抜け出せない子どもや若者の人生のようでもある。
人生とは結局そんなものではないのか、という残酷な諦念が『鬼滅の刃』の物語にはある――煙草を吸うような気軽さで人々の命が消えていく『チェンソーマン』の物語も同様である。
もちろん鬼になった者たちに限られない。妓夫太郎と堕姫という鬼の兄妹は、炭治郎と禰豆子の兄妹の裏サイドのようなペアである。禰豆子が鬼になった時、たまたま出会ったのが鬼殺隊の人間だったため、炭治郎たちは人間にとどまることができたが、堕姫(人間のときの名前は梅)が全身を焼かれ死にかけたとき、たまたま出会ったのが鬼の童磨(どうま)だったため、妓夫太郎と堕姫は鬼になった。それはたんなる偶然であり、紙一重だった。
『鬼滅の刃』の世界では、鬼たちは家庭の外部から襲ってくるとは限らない。家族の中の誰かが、突然鬼になるかもしれない。これは現代社会のリアリティでいえば、やはり、家族による虐待やDVを思い起こさせる。あるいは、カルト宗教や闇バイトに家族が突然巻き込まれてしまったとすれば――。実際に『鬼滅の刃』では、家族の誰かが突然鬼になり、その家族を自らの手で殺さざるをえず、罪悪感やトラウマを抱えたまま鬼殺隊に入る、というパターンがしばしば反復される。DVのサバイバーや宗教二世の家族問題の観点から『鬼滅の刃』を読むことも可能だろう。
生まれた境遇の不幸を乗り越えるのは困難
「親ガチャ」という言葉がある。自分の生まれをガチャガチャ(カプセルトイ)や電子くじにたとえた言葉である。もともとは二〇一七年頃にネットスラングとして流通し、二〇二一年に「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップテンに入り、同年の「大辞林が選ぶ新語大賞」にも選ばれた。親ガチャという言葉には、次のような含意がある。人は、自分がどんな親のもとに生まれてくるか自分で選択することはできない(出生の偶然性)。それはガチャ=くじのようなものである。
たとえ親を選べなくても、個人の能力や努力によって生まれの不運・不遇を乗り越えられるなら、親ガチャを過度に嘆く必要はない。しかし、現代社会は残酷なまでに不平等であり、生まれの不運・不遇を個人の意志や努力によってはそもそも乗り越えることができない。少なくともそれは著しく困難である。たとえば親が貧困であればその子どもたちも貧困になり、また教育や社会経験などの人的資本の面でも不平等・不公正が継承され再生産されてしまう(経済的格差の固定化)。あるいは、虐待やDVを行う親のもとに生まれてしまえば、根本的な自尊心や自己愛を養うことができず、その後の人生を不幸なものとして送らざるを得ない。したがって、最初の出生の偶然性、親ガチャの失敗によって人生はあらかじめ決まってしまう。
しかも、ソーシャルゲームの世界とは違って、人生はリセットマラソン(最初のガチャで失敗した場合、ゲームを一度リセットし、成功するまでガチャを繰り返すこと)もできない。残機一機でリプレイ不可、ガチャに失敗(親ガチャとか学校ガチャとか)してもリセマラ禁止。人生とはクソゲーである……。
親ガチャという言葉の背景には、すなわち、「自分の個人的な努力によっては状況を変えられない」(1)、「自分たちが生きる社会が公正なものに変わることはありえない」(2)という二重の諦念があるのであり、そうした世界のもとでは親ガチャ=出生の偶然性によって人生の幸不幸の全てが決まってしまう、という無力感があるのだ。
加速する効率主義
ライターで音楽ブロガーであるレジーは著書『ファスト教養』で、ひろゆき、中田敦彦、ホリエモンなどのインフルエンサーを追い求める人々の欲望を分析している。手っ取り早く教養を得ようとし、コスパやタイパ、ワンチャンを重視する「ファスト教養」と呼ばれるものは、地道な努力よりも偶然や運に左右されがちな現代社会――ビジネス界隈で「VUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代」と呼ばれる――におけるサバイバルツールとして機能している。たんに地道に努力するだけではなく、最小限の力で最大限の成果を上げていかなければ、そもそも現代社会の中では生き残ることができないのであり、成長し続けなければ競争から脱落してしまう。たんに楽をしたいという話ではない。
彼ら彼女らにとってはおそらく、資本主義自体が(機会平等と対等な競争に基づきwinwinをもたらす市場経済ではなく)あたかも気候変動や環境破壊のように感じられている。だからこそ、民主主義的で公正なルールに従わず、その裏をかくようなチート的な姿勢こそが、若者たちにとっては「合理的」に感じられるのだ。
あるいはライターの稲田豊史のベストセラー『映画を早送りで観る人たち』の議論も、若者たちを強いる宿命的な現代的感覚をとらえたものだろう。稲田の調査によれば、若い世代ほど映画を早送りで観ようとする。結末やあらすじを事前に調べる。若者たちはなぜそれほど効率=コスパを重視するのだろうか。端的に時間がなく、お金がなく、心の余裕がないからである。情報過多で流動的なファスト社会の中で、自分だけの個性や結果を効率的に求めていかざるをえないのだ。
そこには「生まれながらに奪われている」という感覚がある。
現代の宿命をどう生きていくのか
縁故的な資本主義によって負債と借金を背負わされ、まじめな賃金労働の価値は下落し、生活全体を覆うネオリベラリズムと現代的官僚制の中で、慢性疲労と鬱状態と依存症を強いられていく――。そこではコスパやタイパはやはり「合理的」な生存戦略なのである。私たちは人生の中で様々な選択を行い、様々な偶然(=ガチャ)を経験する。学校の選択、友人の選択、仕事の選択……。それらの選択がある程度までは本人の努力や意志によって結果を変え得るのに対して、自分がどんな親から生まれるかという出生については主体は何ひとつ関与できない。その意味で、出生の偶然性は他の様々な偶然性とは決定的に異なる「もっとも根源的な偶然性」にほかならない(戸谷洋志『親ガチャの哲学』)。
逆に言えば、私たちは「生まれた家庭によってその苦境に陥ることがあらかじめ決定されていたのであり、それを変えることができなかったのは、自分のせいではない」と考えることができる。親ガチャの失敗を恨むことで、自分の不幸や不遇の責任を免除できる。これはある種の厭世的で悲観的な「宿命論」である。
しかし「このような厭世観が普及した背景には、経済格差の固定化などによって、自分の人生を自分で変えられるという自信が私たちから失われていった、という社会的な情勢の変化が指摘されています。どうあがいても自分の人生を好転させられない状況が、ある種の宿命論を誘発するのです」(同)。
親ガチャという宿命論は、苦境に陥った人が、自分の苦境を理解し受け入れ、自分を納得させるために選び取るものなのであり、「そう考えでもしなければ生きていくことさえままならなくさせ」られている、という厭世的で悲観的にならざるをえない社会状況があるのである。
人の幸不幸は生まれによってすでにあらかじめ決められており、自分の個人的な能力や努力によってはどうにもならない、この社会を変えることもできない、という若者たちの宿命論を単純に批判し否定することはできない。そうした考えを抱くこと自体が現代社会を生き延びるための生存戦略なのだから。しかし、そうした宿命論にとらわれることは、根源的な無力感によってますます自縄自縛になり、自分の能力や努力の意味を否定し、自己愛や自己尊重の感情を縮減させていくことでもあるだろう。
それならば、そうした無力感や宿命感を受け止めた上で、現代の若者たち、少年少女たちが、残酷で理不尽なこの世界を正しく自由に生き抜くためには、どうすればいいのだろうか。
私は本書において、現代的な少年マンガのキャラクターたちの運命と、私たちが生きる現代社会の構造的な変化とを、同時に、行きつ戻りつしながら論じてみたい。
[書き手]杉田俊介
1975年生まれ。批評家。主な著作に『宮崎駿論』(NHKブックス)、『長渕剛論』(毎日新聞出版)、『非モテの品格』(集英社新書)、『ジョジョ論』(作品社)、『ドラえもん論』(Pヴァイン)、『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』(集英社新書)、『橋川文三とその浪曼』(河出書房新社)、『神と革命の文芸批評』(法政大学出版局)、『男がつらい!』(ワニブックスPLUS新書)など。
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