書評

『ららら科學の子』(文藝春秋)

  • 2017/11/27
ららら科學の子  / 矢作 俊彦
ららら科學の子
  • 著者:矢作 俊彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(528ページ)
  • 発売日:2006-10-06
  • ISBN-10:4167691027
  • ISBN-13:978-4167691028
内容紹介:
男は殺人未遂に問われ、中国に密航した。文化大革命、下放をへて帰還した「彼」は30年ぶりの日本に何を見たのか。携帯電話に戸惑い、不思議な女子高生に付きまとわれ、変貌した街並をひたすら彷徨する。1968年の『今』から未来世紀の東京へ-。30年の時を超え50歳の少年は二本の足で飛翔する。覚醒の時が訪れるのを信じて。
主人公に、名前がない。本当はあるのだろうけれど、この小説の中で名前を名乗ることもなければ、呼ばれることもついにない。「彼」は学生運動華やかなりし一九六八年、殺人未遂に問われ、逃れるように中国に密航。文化大革命をその目で見て学び、数年後には帰国する腹づもりだったのだが、中国政府の下放政策で南方の寒村にやられ、そのまま農民となってしまう。それから三〇年後、やはり密航という手段で日本に戻ってきた「彼」は、親友・志垣が仕切っている組織にかくまわれながら、志垣の手下・傑と共に妹の行方を探すのだが――。

天安門事件が一〇年も後に伝わるようなテレビもないド田舎で暮らしていた「彼」にとっては、見るもの聞くものすべてが未知の世界。携帯電話、けたたましくけばけばしい女子高生、様変わりした街の光景、パソコンの普及、内容のないテレビ番組、流行り言葉などなど。三〇年後の日本には彼の記憶と重なるものは、もうほとんど残されていない。七〇年安保世代の作者・矢作俊彦は、この二一世紀版・浦島太郎の六八年でフリーズしている目を通して、あの激動の時代から三〇年を経て、日本はどう変わり、日本人が何を失ったのかを描こうと試みる。それは「彼」の感慨を真似れば、優勝を目前にした大事な試合で長嶋茂雄にバントを命じるような川上野球、そのせこくて地味で貧しい精神が、ついにこの小さな島国を支配してしまったということに象徴されるのかもしれない。

長嶋の犠牲バントで、その試合はジャイアンツが勝った。しかし、と「彼」は憤る。

勝ったわけではない、と彼は志垣に言った。たまたま相手が負けただけだ。これは勝利ではない

そういうことなんである。バブル景気という誇りなき見せかけの勝利に酔った挙げ句の、行き当たりばったりの九〇年代。そして、未来に何の展望も抱けない現在。この小説で、矢作さんは「もう終わったんじゃないの、日本は」という厳しい最後通牒を突きつけている、わたしにはそう読めるのだ。

この小説にはたくさんの引用がある。赤い帽子をかぶって妹に会いに帰国した「彼」は、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン少年だ。これは、幼い妹に「兄さんは世の中が何もかも気に入らないだけよ」と諭されたじろいだホールデン少年が、三〇年後にその世の中と対峙し直す物語なのだ。日本を捨てる前日、銀座で小さな妹に『点子ちゃんとアントン』を買ってやる「彼」 は、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』の主人公の似姿とすら言えるかもしれない。「彼」が中国で娶った娘の父の貌(かお)は彭見明(ポンジェンミン)『山の郵便配達』の老人のそれと重なり、「彼」の中国での生活を描いたパートは残雪(ツァン・シュエ)、莫言(モー・イェン)といった作家の諸作品を彷彿させる。その他、ジュニア時代のカート・ヴォネガット、『王子と乞食』、流行歌、そして、いうまでもない『鉄腕アトム』などなど、矢作俊彦は数々の引用によって共時性の波紋を広げていくのだ。

驚かされるのは、そうした先行作品のイメージを多用する作者の筆が、これまでと違って少し湿っていることだろう。「どんなに大人になっても僕らはアトムの子供さ」と謳う山下達郎の楽曲にある明るい展望や自己肯定は、ここにはない。たとえば『点子ちゃんとアントン』にまつわるエピソード。成長して評論家となった「彼」の妹は自著の中で、ケストナーの名作をこう読み解いている。貧乏な少年アントンを助けようと孤軍奮闘する点子。その「絶対的な絆。何の損得勘定も絡まずに、世界中が敵に回っても、自分の傍にいてくれる人間の絆。それを、かつて子供だったわたしはこの二人に見ていた」「だが、彼らは、そんなものをあてにはしていなかった。そんなものでお互いを縛ることはなく、ともに生きてゆくために、ただ必要な努力を続けているだけだった。誰に求められたわけでもなく、自分自身の誇りとして。だからこそ、彼らは一緒にいられたのだ」。

その努力を怠った三〇年間だったということだろうか。日本と日本人は、ハードボイルドな男・矢作俊彦にこんなセンチメンタルな作品を書かせるほど、信頼と誇りを喪失してしまったということなのだろうか。

「彼」は小説の最後で、離ればなれになってしまった妻の行方を探すために、今度は独り中国へと向かう。そして、日本に帰ってくるのかと問う傑にこう答える。

「ああ、戻るよ。言ったじゃないか、名前を取り返さなきゃならない」

次なる帰還は一体何年後になるのだろう。その時、“わたし”はついに「彼」の名を知ることができるのだろうか。「彼」や“わたし”は、何者かになれるのだろうか。それは果たして幸福なことなのだろうか。そんな感傷に包まれる。読後様々な思いや考えが去来する、これは全ての日本人が読むべき大切な一冊なのである。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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ららら科學の子  / 矢作 俊彦
ららら科學の子
  • 著者:矢作 俊彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(528ページ)
  • 発売日:2006-10-06
  • ISBN-10:4167691027
  • ISBN-13:978-4167691028
内容紹介:
男は殺人未遂に問われ、中国に密航した。文化大革命、下放をへて帰還した「彼」は30年ぶりの日本に何を見たのか。携帯電話に戸惑い、不思議な女子高生に付きまとわれ、変貌した街並をひたすら彷徨する。1968年の『今』から未来世紀の東京へ-。30年の時を超え50歳の少年は二本の足で飛翔する。覚醒の時が訪れるのを信じて。

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