「溯りの思考」が発掘する動く広告の歴史
文化史研究者に不可欠な資質は「溯(さかのぼ)りの思考」ではないか。どんなモノにも歴史があるから、外見的な変遷をクロノロジックに辿(たど)っていけばそれなりの「〇〇の文化史」が出来上がる。たとえば、テレビCMだ。従来のテレビCM史は転換点として一九六七年のレナウン「イエイエ」(ディレクター・杉山登志 企画者・電通の今村昭[別名・石上三登志(みつとし)])を挙げていたが、それがどのような背景から誕生したかまでは踏み込んで説明していない。いっぽう本書は「イエイエ」をクリエイトした杉山登志と今村昭のコンビを記述の中核に据えながら「溯りの思考」を働かせ、「イエイエ」の背景調査から始めてテレビCMの黎明(れいめい)期とグラフィックデザインの関係にまで論を進める。しかし、凄(すご)いのはそこからさらに明治の「廣告幻燈会」にまで溯行(そこう)することだ。「昭和が始まったとき既に『動く広告』は存在していた。それはどのような広告だったのか。なぜ存在していたのか」
明治二十四(一八九一)年、大阪で最初に行われた廣告幻燈会は大好評をもって迎えられたが、この廣告幻燈会を仕掛けた萬年社は大阪毎日新聞社専属の取次として発祥した広告代理店であり、次に来る「廣告映画」の主体も大阪毎日新聞であった。
新聞社という紙メディア(の広告)周辺から『動く広告』が立ち上がっていく、その原点に萬年社の『廣告幻燈会』があった。
すなわち、日清戦争前後から拡張を開始した新聞社は新規顧客の開拓を狙って廣告幻燈会のような無料イベントを企画したが、活動写真(映画)の時代が訪れると「活動写真班」による地方巡回映画会を組織する。映画の合間に廣告幻燈を入れたのだ。やがて、廣告幻燈は広告映画に代わっていくが、原点には廣告幻燈会があったのだ。この発見は、広告映画は映画館で上映されたのではないかとする仮説を覆す画期的なものだが、それ以上に興味深いのは「動く広告」=広告映画は新聞社系の紙媒体の広告活動の周辺から生まれてきたという指摘である。
こうした観点が生きてくるのは第2章「国家メディア戦略 『文化映画』への広告の接近」である。原弘(ひろむ)と板垣鷹穂(たかお)という戦前・戦後の日本の国家メディア戦略を担った二人の重鎮はともに紙媒体を主戦場にしながらも「広告しながら楽しませる」広告映画の出現を待望していたが、その期待は日中戦争の勃発を機に国家総動員的なプロパガンダ映画である「文化映画」が生まれると、一部現実化する。
敗戦によりこの流れは途切れたかに見えたが、占領終了とともに民放テレビ局が発足するとテレビCMとして復活してゆく。ただし、放映開始とともにテレビで「広告しながら楽しませる」広告映画がそのまま花開いたわけではない。初期のテレビではブラウン管の精度の低さからCMは番組中の「生CM」が九割を占め、フィルムCMもほとんどはアニメだったからだ。
このアニメCM隆盛の波に乗ったのが東映動画の前身、新日本動画社である。GHQは「文化映画」の一翼を担った国策アニメ「桃太郎 海の神兵」の出来栄えに恐怖し、統制が利くように才能ある動画作家を戦後すぐに一カ所に集めて新日本動画社を発足させたが、その後身たる東映動画は「東洋のディズニー」を目標に「白蛇伝」を完成する。しかし、アメリカのグラフィックデザイナーであるソール・バスの画期的な映画タイトル動画が出現するに及んで、これに刺激された日本のアニメ作者たちは反ディズニー的志向を強める。開高健と柳原良平が組んだ一九五八年の寿屋(現サントリー)のアンクル・トリスはこうした志向から生まれたものだ。
このようなCM独自の芸術性志向は一九五八年に草月アートセンターが創設され、その活動が一九六〇年の柳原良平・久里洋二・真鍋博「アニメーション三人の会」のアニメ上映会をきっかけに活発化すると、より顕在化してくる。一つは「イエイエ」の大ヒットを契機に一九六八年に草月アートセンターの下部組織、草月シネマテークで「饒舌の映像―テレビ・コマーシャル・フィルム」が石上三登志の企画で催されて大反響を呼んだこと、もう一つは、自主製作の実験映画を集めた「フィルム・アンデパンダン展」が一九六四年から開催され、大林宣彦らの才能を世に送り出したこと。とりわけ、後者で大林作品を見た電通の今村昭等がその才能にほれ込んで、豊富な広告マネーをバックにCM制作を彼に任せたことが大きい。
純粋に映像の実験を試みたかった大林が、当時新しい表現を求めていたテレビCMと出会った。そしてそれは、商業映画がどん底に向いつつある時期だったのだ。
徹底した資料探索と深い読み込み、そして抜群のストーリー・テリングで、単調になりがちのテレビCM史を波瀾万丈の物語に仕立てた才能は驚嘆に値する。文化史の傑作。