書評

『厨川白村:「愛」は人生の至上至高の道徳』(ミネルヴァ書房)

  • 2025/11/23
厨川白村:「愛」は人生の至上至高の道徳 / 張 競
厨川白村:「愛」は人生の至上至高の道徳
  • 著者:張 競
  • 出版社:ミネルヴァ書房
  • 装丁:単行本(434ページ)
  • 発売日:2025-09-17
  • ISBN-10:4623099717
  • ISBN-13:978-4623099719
内容紹介:
大正日本のベストセラー作家が紡ぎ出す、東アジアにも影響を与えた、この国の恋愛のかたち。厨川白村(一八八〇~一九二三)文芸評論家・京都帝国大学教授。大正期に日本の批評空間で「ラヴ… もっと読む
大正日本のベストセラー作家が紡ぎ出す、東アジアにも影響を与えた、この国の恋愛のかたち。

厨川白村(一八八〇~一九二三)文芸評論家・京都帝国大学教授。
大正期に日本の批評空間で「ラヴ・イズ・ベスト」の神話を生み出した厨川白村。当時熱狂的に読まれた文芸批評や『近代の恋愛観』は、その後朝鮮半島・中国でも一大ブームを起こし、『苦悶の象徴』『象牙の塔を出て』は魯迅が翻訳にあたった。この事実は、東アジア文学の将来を考えるとき、多くのヒントを与えてくれる。現代へと続く文化的礎石を作ったその生涯をはじめて解き明かす。

【目次】
プロローグ なぜいま厨川白村か

第一章 京都と大阪で過ごした幼少年時代
1 謎の残る幼年期
2 小学校時代の面影
3 エリート教育への第一歩

第二章 最初の音符を奏でるのは大事だ
1 英詩翻訳の試み
2 若き精神が奏でる詩の旋律
3 批評のための予行演習

第三章 鉄は熱いうちに打て――三高で過ごした日々
1 三高進学という関門
2 誇り高き三高生になって
3 自由な校風に育まれて
4 校友会誌の編集にも

第四章 象牙の塔での喜悲劇――東京帝大での歳月
1 赤門をくぐって
2 最高学府で味わった苦楽
3 教える「天才」を目の当たりにして
4 恩師の「解任」騒動に巻き込まれて
5 夏目漱石の教えを受けて
6 悲喜こもごもの巣立ち

第五章 三高の英語教授になるまで
1 見知らぬ地で田舎教師になる
2 英語教師の評判
3 相思相愛の末に
4 名物教授の泣き笑い
5 母校の教壇に立つ

第六章 新進気鋭の評論家のデビュー
1 人気者と道化役は紙一重
2 新進気鋭の教授の光と影
3 文壇に殴り込む
4 処女作が誕生する前夜
5 処女作がベストセラーに
6 さらなる飛躍へ

第七章 左足切断という不運に見舞われる
1 『文芸思潮論』を刊行するまで
2 左足切断という災厄に見舞われる
3 アメリカ留学への旅立ち

第八章 アメリカ留学での体験
1 ニューヨーク生活の泣き笑い
2 肌で触れたアメリカ文学
3 懐郷の念がそそられる異国体験
4 幻の「現代日本小説集」英訳の波紋
5 シエルコフ夫人の正体

第九章 学界と論壇を股にかけて
1 京都帝大復帰の重み
2 語り継がれる伝説の虚実
3 意図せぬアメリカ論
4 社会批評や文明批評にも

第十章 人生の頂点から思わぬ結末へ
1 海外にも名を轟かせて
2 「ラヴ・イズ・ベスト」という神話の誕生
3 予想外の災厄

エピローグ 日本から東アジアへ――独り歩きする人間像
参考文献
あとがき
厨川白村略年譜
人名・事項索引

×月×日

厨川白村(くりやがわはくそん)といっても、いまの日本では知る者は少ない。私は菊池寛の伝記を書いたので、厨川が京大英文科時代の菊池の恩師であり、関東大震災で津波に襲われて翌日死亡したことくらいは調べていたが、伝記的詳細や業績についてはほとんど知らなかった。

この意味で張競『厨川白村「愛」は人生の至上至高の道徳』(ミネルヴァ書房三八〇〇円+税)はまことにありがたい評伝だが、しかし疑問に思ったのは、中国人である著者がなにゆえに厨川白村の伝記に取り組もうと思ったのかというその動機である。

文化大革命のために、学校が閉鎖していた。革命からはじき出された少年は中国や外国の文学書を手当たりしだい読んでいた。ある日、『苦悶の象徴』という奇妙な書名の読み物に出会い、半熟の精神世界は一変した。決して読みやすいとは言えない翻訳書だが、文学という行為から、このような豊かな世界を生み出せるかと思うと、少年は眠れなくなった。

つまり、文学的原体験の確認としての伝記なのだが、その眼目はどこにあるのか?

大阪造幣局下級官吏という没落士族を父(ただし養父)としたため、学費の捻出に苦しんだ事実が、思いのほか彼の人生に影響を与えていたことを明らかにしようとしたのだろう。

とりわけ、東京帝国大学英文科在籍時の明治三六年に起こったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)教授解任騒動における白村の態度が問題である。英文科学生集会でハーン解任には全員退学で対抗しようという小山内薫らの提案に、ただ一人だけ最後まで反対したのが白村であったのだ。

総退学決行という動議にはどうしてもついていけない。それには彼自身だけでなく、厨川家の苦しい事情もあった。(中略)彼が年老いた両親を肩に載せ、波立つ人生の川を渡らなければならない。この責任を果たすためにも、学友たちが彼に向ける軽蔑の眼差しの灼熱に堪えざるをえない。

結局、井上哲次郎文科大学長の妥協案を拒否してハーンが自主退職を申し出たため学生たちの反乱は腰砕けに終わったが、次に新任の夏目漱石講師に彼らが反発するという事件が起こる。「そのような険悪な雰囲気のなかでも、白村はまめに夏目金之助先生の授業に出て、熱心に講義を聞いていた」。

同級生の軽蔑など白村は意に介さなかったのだ。

かくて白村は英文学者・夏目金之助の最初の弟子になるが、対人関係では苦労する。「人間は集団生活の動物で、まわりの人と折り合いをつけないと、人生の小船は前へ進めなくなる」。

白村は恩賜の銀時計組となり、熊本の第五高等学校に赴任した後、母校の三高に転ずるが、この「恩賜の銀時計」が後にトラブルのもととなる。漱石の新聞小説『虞美人草』の主人公・小野清三が恩賜の銀時計組であること、また白村が大恋愛の末に結婚した福地源一郎の子孫の蝶子が活発な美人だったことから、白村夫妻は作中の小野とヒロイン藤尾のモデルではないかと噂され、冷やかしの対象となったのだ。

また、白村のストレートな態度も摩擦を引き起こした。「他人の目を意に介さず、何でも無遠慮に言ってしまうから、その率直さが仇となるのはしばしばであった」。文筆活動を開始し、『近代文学十講』、『文芸思潮論』、『近代の恋愛観』などがベストセラーとなり、文壇で活躍するようになっても、その姿勢をキザだ、売名的だと論難する者も少なくなかった。

従来の伝記を細部にわたって再点検し、実証的な観点から、早く来すぎたために忘れられてしまった天才の悲劇を掘り起こした真の意味での労作と言っていい。
厨川白村:「愛」は人生の至上至高の道徳 / 張 競
厨川白村:「愛」は人生の至上至高の道徳
  • 著者:張 競
  • 出版社:ミネルヴァ書房
  • 装丁:単行本(434ページ)
  • 発売日:2025-09-17
  • ISBN-10:4623099717
  • ISBN-13:978-4623099719
内容紹介:
大正日本のベストセラー作家が紡ぎ出す、東アジアにも影響を与えた、この国の恋愛のかたち。厨川白村(一八八〇~一九二三)文芸評論家・京都帝国大学教授。大正期に日本の批評空間で「ラヴ… もっと読む
大正日本のベストセラー作家が紡ぎ出す、東アジアにも影響を与えた、この国の恋愛のかたち。

厨川白村(一八八〇~一九二三)文芸評論家・京都帝国大学教授。
大正期に日本の批評空間で「ラヴ・イズ・ベスト」の神話を生み出した厨川白村。当時熱狂的に読まれた文芸批評や『近代の恋愛観』は、その後朝鮮半島・中国でも一大ブームを起こし、『苦悶の象徴』『象牙の塔を出て』は魯迅が翻訳にあたった。この事実は、東アジア文学の将来を考えるとき、多くのヒントを与えてくれる。現代へと続く文化的礎石を作ったその生涯をはじめて解き明かす。

【目次】
プロローグ なぜいま厨川白村か

第一章 京都と大阪で過ごした幼少年時代
1 謎の残る幼年期
2 小学校時代の面影
3 エリート教育への第一歩

第二章 最初の音符を奏でるのは大事だ
1 英詩翻訳の試み
2 若き精神が奏でる詩の旋律
3 批評のための予行演習

第三章 鉄は熱いうちに打て――三高で過ごした日々
1 三高進学という関門
2 誇り高き三高生になって
3 自由な校風に育まれて
4 校友会誌の編集にも

第四章 象牙の塔での喜悲劇――東京帝大での歳月
1 赤門をくぐって
2 最高学府で味わった苦楽
3 教える「天才」を目の当たりにして
4 恩師の「解任」騒動に巻き込まれて
5 夏目漱石の教えを受けて
6 悲喜こもごもの巣立ち

第五章 三高の英語教授になるまで
1 見知らぬ地で田舎教師になる
2 英語教師の評判
3 相思相愛の末に
4 名物教授の泣き笑い
5 母校の教壇に立つ

第六章 新進気鋭の評論家のデビュー
1 人気者と道化役は紙一重
2 新進気鋭の教授の光と影
3 文壇に殴り込む
4 処女作が誕生する前夜
5 処女作がベストセラーに
6 さらなる飛躍へ

第七章 左足切断という不運に見舞われる
1 『文芸思潮論』を刊行するまで
2 左足切断という災厄に見舞われる
3 アメリカ留学への旅立ち

第八章 アメリカ留学での体験
1 ニューヨーク生活の泣き笑い
2 肌で触れたアメリカ文学
3 懐郷の念がそそられる異国体験
4 幻の「現代日本小説集」英訳の波紋
5 シエルコフ夫人の正体

第九章 学界と論壇を股にかけて
1 京都帝大復帰の重み
2 語り継がれる伝説の虚実
3 意図せぬアメリカ論
4 社会批評や文明批評にも

第十章 人生の頂点から思わぬ結末へ
1 海外にも名を轟かせて
2 「ラヴ・イズ・ベスト」という神話の誕生
3 予想外の災厄

エピローグ 日本から東アジアへ――独り歩きする人間像
参考文献
あとがき
厨川白村略年譜
人名・事項索引

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初出メディア

週刊文春

週刊文春 2025年11月13日

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