ミステリーファンの多くは“開かれた結末(リドル・ストーリー)”を好まない。つまり、謎はいつだって解かれるべきなのだし、物語の環は必ず閉じられるべきだという読み方。日常生活がその正反対で、たいていの謎はうやむやにされたままだし、今日が明日につながっている限り個々人の物語が閉じるはずもないのだから、小説にくらいすっきりした結末を求めたいという気持ちはわからないではない。でも、それ一辺倒じゃ、あまりに子どもっぽい読書傾向とはいえないだろうか。
わけありの男女がイギリスの田園地方の脇道を車で走っている。と、車が故障。薔薇の花が咲き乱れる家で電話を借りようとするのだが、そこの女主人からは電話も自転車もないと言われてしまう。仕方がないので十マイル離れた町まで歩いて助けを求めにいく男。薔薇の館に残された女は――。女性誌が好んで取り上げそうな英国の田園風景、ガーデニングといった要素を背景に置きながら、ページを繰るにつれて禍々しいイメージが膨らんでいく表題作。ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』風の、幽霊が出てこない幽霊譚「猫が跳ぶとき」。急死したヴァンプ女優に魅入られた朴念仁の深い絶望を描く「死せるメイベル」。無能な若者が“何者か”になるために罪を犯すにもかかわらず、なおいっそう“何でもない”自分と深く向き合うことになる瞬間を冷徹な筆致でとらえた「告げ口」。
収められた全二十編すべてが、世界に向かって開かれている。二十世紀英国文学界きっての短編の名手は、たったひとつの読み方や解釈を示すことで読者を安心させたりはしない。書かれていない最後の一行は、読者に託されているのだ。ボウエンの小説はそういう宙ぶらりんに吊られた不安を楽しむことができる大人の読者を求めている。さて、貴女は?