「徳を積むことで勝て」愛されるゆえん
「幕末三舟」は勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟だ。海舟は有名だ。鉄舟も江戸無血開城で知られるが、泥舟は知名度が低い。日本人は武士を理想化した「武士モデル」を欲する。それで三舟は仏のように崇(あが)められ、筆跡が掛け軸に仕立てられ、三尊仏のように床の間に鎮座した。日本国内に遺(のこ)された掛け軸の数量は驚くべきものだ。私の感触では、鉄舟が一番多い。偽物の数と質では、海舟がトップだろう。以前、海舟の精巧な偽印を捺(お)した偽物をみつけ、サンプルとして欲しくなり、買った。よせばいいのに、つい売主の古美術商に「偽物と知って買ってます。ご安心を」と言ってしまい、本物と信じ込む売主が口を尖(とが)らせてきて納得させるのに一苦労したほど精巧だった。
今では、海舟の知名度が高いが、幕末明治初期には、武士の中の武士といえば、泥舟だった。鉄舟はその妹婿だ。本書はその二人の評伝である。泥舟は著者たちが『高橋泥舟関係史料集』(二冊セット)を刊行するまで久しく学術研究が途絶えていた。泥舟の新知見が多いのが本書の価値だ。
江戸無血開城は海舟の功績が通俗的には知られているが、鉄舟が使者として駿府に行って西郷に会い、事前にお膳立てをした功が大きい。慶喜に提案して鉄舟を使者にキャスティングしたのは、泥舟である。鉄舟も泥舟も世に知られたきっかけは幕府武道教育機関の講武所への抜擢(ばってき)だ。泰平の世が続き、幕臣は惰弱になっていたから、幕府は黒船来航で困った。急いで幕臣の性根を叩(たた)き直すため、幕府は平和な時代でも、誠実に「武士」をやっていた少数の変わり者を世に出した。
なかでも、泥舟は尊攘(そんじょう)派の旗本として随一で、従五位下伊勢守という大名なみの官位に任じられた。清河八郎や近藤勇など幕府が浪士たちを活用しはじめると、将軍・徳川家茂は「(泥舟)でなければ浪士を扱うことが難しい」と、彼を頭とした。ところが、泥舟は人柄が善(よ)い。あべこべに清河を尊敬していく。幕閣は過激な清河に手を焼き、どうも泥舟には黙って、別の浪士取締の窪田という幕臣に相談し、手練(てだ)れの旗本・佐々木只三郎に密命し、清河を暗殺させた。本書はふれていないが、慶喜の側近が語った『村摂記』にその証言がある。この佐々木はのちに坂本龍馬暗殺を指揮している。書評と関係ない余談だが、龍馬暗殺が清河暗殺の実績をふまえたもので、おそらく似た背後構造で実行された点を指摘しておく。
本書で面白いのが、泥舟が残した「公雑筆記」の内容である。「龍馬を斬った男」今井信郎が明治四(1871)年二月に、いきなり「酔倒」の体で泥舟の家に来た事実が記されている箇所もある。今井は酔って何を泥舟に打ち明けたのか。その記述はない。ただ今井は翌日に酔いどれ訪問を泥舟に詫(わ)びに来たのは記されている。明治二十年にもなると、攘夷(じょうい)だった泥舟もドイツ人医師・ベルツの医術を素直に信頼している様子がわかる。泥舟・鉄舟理解のキーワードは正直だ。「徳を積むことで勝て。不実のない、正直の勝利」(山岡静山の言)というモットーが彼らにはあった。それが今日まで彼らが愛されるゆえんであろう。