「都市の通気性を確保する」指南書
新型コロナウイルスが感染拡大した直後、「不要不急」という曖昧な言葉が連呼され、曖昧なくせに、その言葉は強制力を持っていた。まず見捨てられたのが文化産業だった。わざわざ集ってまでやるべきことではない、という空気の充満に押し潰されていた。好きなバンドのオンライン配信ライブを観たが、こういう形でも繋がっていられるはず、届けられるはずと、画面から切実なメッセージが届けば届くほど、いや、繋がっていない、届いていないと醒めてしまった。
どうなろうとも、街に音楽が溢れていてほしい。滲んでいてほしい。飛び交っていてほしい。その願いは、自分が趣味を楽しむ土壌を確保してほしいという利己的な考えに過ぎないのだろうか。
イギリスで音楽コンサルティング企業を創設し、音楽を手がかりにした問題解決を目指す団体の代表を務める著者が本書で分析・提言したのは、都市政策としての音楽の価値。音楽体験が個々人のイヤホンの中だけに閉じこもり、それでいて売れる音楽とそうではない音楽の二極化で均質化すると、音楽がますます公共性を失う。
音楽は、暮らしのあらゆる場面に浸透しているため、都市開発においては『炭鉱のカナリア』の役割を果たし、考え方次第では、より良い都市開発政策を生み出すための手段ともなりうる。
音楽を水道水のように考えたらどうかとの提起がある。街のインフラとして、あちらこちらに流していく。用途を広げ、混じり合っていく。しかし、今、新たに音楽にまつわる施設を作るとなれば、騒音対策などが厳しく問われる。スタジアムを満員にするアーティストが稼いだ金額は算出できても、ふと入ったレストランで生演奏されていたピアノがいかに消費を呼び起こしたのかは見えにくい。費用対効果の考え方を正面から音楽に持ち込めば、文字通りの「不要」が生じ続けてしまう。
「音楽はわたしたちの都市の基盤に組み込まれるべきものというよりは、一部の過激な人びとが好むものであるという偏見」を消さなければ、音楽が公共予算に組み込まれることもなくなってしまう。
アラバマ州・ハンツヴィルは「商業音楽産業からすると三流マーケット」とされてきたが、野外円形劇場の「ジ・オライオン・アンフィシアター」を基点にし、音楽の通り道となる場を作り直していった。こういった事例があっても、「労働時間、収益、そして人員構成が絶えず流動しているこの業界の経済を、一般企業と同じように捕捉することは難しい」。一部のアーティストだけが潤う構造を脱却するために、音楽の届く範囲を拡張していく。そのための都市のありかたとはいかなるものかと問う。
ここ日本では、海外の大物アーティストがアジアツアーの一環として、東京だけでライブを開催、大阪・名古屋には立ち寄らない日程も増えた。逆に、さほど知名度のないアーティストが過酷な日程で来日公演を敢行、翌朝すぐに日本を発つケースも散見される。
文化全般に充分な予算を割かない国は、いかなる都市を作り上げてしまうのか。都市の通気性を確保するのが文化ではないかという視点を持ってほしい。本書はその具体的な指南である。