経済格差の広がりを止められない理由
ボーヴォワールの『第二の性』に、「人間とは男のことであり、<中略>つまり女は“他者”なのだ」という有名な一節がある。男性が基準(デフォルト)であり、女性は逸脱した変異型だという古来の考え方だ。アダム・スミスの経済理論「見えざる手」の届かないところに、見えない性がある、とカトリーン・マルサルは言う。見えない性とは「女性」。ホモ・エコノミクス(経済人)理論のモデルは女性の存在を無視して作られてきたという意味だ。女性権利活動家のクリアド=ペレスは『存在しない女たち』で、雪かき作業から病気の診断まで、社会のあらゆる機構が女性の心身を度外視して設計されていることを論証したが、経済学もその例に漏れなかったようだ。
アダム・スミス曰(いわ)く、「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」。人間の愛や親切はあてにならないが、人は常に利を求めて動き競いあう。自由市場こそが効率的な経済の鍵であり、人びとの利己心があればこそ、ステーキが食卓に上る。経済学は「愛の節約」を研究する学問なのだ――果たしてそうだろうか? 「ちなみにそのステーキ、誰が焼いたんですか?」と、マルサルは問う。
独身者の母が日々世話をしたのだ。無償で。愛ゆえに(かどうかはわからない)。第二の性が支えてきた「第二の経済」があるのに、それを経済学は丸々視界から排除してきた。一九五〇年代のシカゴ学派のように、女性のケア労働なども経済モデルで分析しようとした人たちもいるが、それは新自由主義の牙城の学者たちが「自説を確認しただけ」で、「答えは最初から決まっていた」という。
economyの語源のoikosは「家」に由来するのに、家事や家族の面倒を考慮しなかったのはなぜか。一つには、ケア労働が他者への献身であり(看護師業は元々修道女の仕事だった)、「高潔で尊いもの」だからお金には換算できないという理屈がある。だが、ケア=愛は女性から無尽蔵に湧いてくる「天然資源」ではない。ナイチンゲールが看護の偉業を成し遂げたのは、資金があったからだ。
もう一つには、自律と自由を重んじる近代以降の「個人像」の影響もあるだろう。マルサルのいう「自分の生き方は自分で決め、他人のやり方には口を出さない」「孤立した」経済人というのは、政治哲学者のチャールズ・テイラーがbufferedself(緩衝化され隔絶した自己)と表現した近代人像と重なる所がないだろうか。三つ目に、突き詰めれば、ケア労働が人の「肉体」に関わることだからではないのか? 人類は昔から精神を上位に、身体をより下位に置いてきた。本書によれば、男性は知性が司る生き物=「精神の体現者」である一方、女性は身体に「引きずられ」るので劣った存在=「身体の体現者」という見方がある。
いまの世界が抱える貧困問題の多くは、女性問題だ。マルサルは「自由という言葉は、使い方しだいでどこまでも残酷になる」と述べ、「弱さを受け入れよう。私たちの共通点はいつも身体から始まる」と主張する。経済格差が広がるのを止められない理由を知りたいなら、アダム・スミスの夕食について知るべし。