書評
『翻訳する私』(新潮社)
トランスレーションのかなたの世界
インド系英語作家だったラヒリがイタリア語で書きだしてから、十年あまりが経つ。本書は、小説家が自らの言語能力にあえて枷をはめて書いた翻訳論だ。英語作家としての地位をすてることを惜しむ人も、なぜわざわざ拙い第三言語で書くのかと首をひねる人もいた。しかしラヒリは自らの強い意志で「言語的亡命」をはたすべく、イタリア語の大海へ泳ぎだしたのだった。
イタリア語ですぐさま楽に泳げたはずがない。そこに力を添えるのが翻訳という営為だ。「二つに割れた言語世界」に生まれ育った自分は「作家より前から翻訳家だったのであって、その逆ではない」と言い、「書く」と「訳す」ことが彼女にとって、広い言語世界を泳いでいくための二つの「ストローク」となった。
新しい言語で書こうとすることは「失明するのも同然」の部分があったが、やがてあるイタリア作家の作品に接したおかげで、「ほとんど見えない」ことも「一つの視点」なのだと気づく。
翻訳者にとってとりわけ熱い一章は「エコー礼讃」だ。おしゃべりが過ぎた罰に言葉をおうむ返しにしか話せなくなり、木霊の語源となった神話のエコー。ラヒリはナルキッソスを原作に、エコーを翻訳者になぞらえて語る。後者は前者に魅入られてひたすら後をついていくが、つねに二番手で、ナルキッソスの前に出ることはなく、その言葉を反復し模倣するばかり。エコーは身体性を欠き、その声だけが残っているのだ。
そう、これは欧米の翻訳界で「翻訳者の不可視性」と呼ばれるものを表現している。ラヒリがイタリア作家の英訳書に手厚い序文を書くと、訳者は出しゃばるなとの非難を受けたという。翻訳者は原作の木霊を響かせているだけでいい、姿は見せるなというわけである。
ラヒリがユニークなのは、ナルキッソスもある意味翻訳の比喩として論じている点だ。彼は水面に映った自分の姿が自分だとわからず、その像に恋をして水死する。ラヒリは言う。オリジナルとその鏡像のどっちがどっちかわからない程になれば、翻訳は上等だと。
訳文は原文とイコールであるかのように振る舞っているが、じつは別物であり、その証拠にAを訳したBをまた訳し戻してもAには還らない。ここでラヒリはこの「翻訳等価性のトリック」について語っているのである。
また、ナルキッソスは自分の声の木霊に送られながら水没する。つまり、エコーの声はナルキッソスが消えた後にも響きつづける。これはあの有名な翻訳論「翻訳者の使命」の「翻訳は原作の死後の生」という一節の美しいパラフレーズに他ならない。
あとがき「変容を翻訳する」にはラヒリの翻訳観と母への追慕が結晶している。オウィディウスの『変身物語』の翻訳を模索しながら、死という最も劇的な存在の変化と向きあう一編である。
味気ない学術用語と机上の空論から成るトランスレーションスタディーズでは到達しえない詩的な洞察と切なる実感に満ちている。
異言語とかかわる者は永遠の客人であり、本書は三言語の間にたゆたう作家の孤独と解放の感覚、その茨(いばら)の棘のような痛みと、朝露のように澄んだ耀(かがや)きを読者にもたらしてくれるだろう。
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