やわらかな光が包む人間の善良さ
「マイカ・モーティマーのような男は、何を考えて生きているのかわからない」。アン・タイラーが八十歳に近づいたときの作品である、彼女にとっては二十三冊目の小説『この道の先に、いつもの赤毛』は、こう書き出される。小説の舞台は、アン・タイラーの愛読者にはおなじみのボルティモア。主人公のマイカは四十過ぎの独身男である。コンピュータの技術サービスを提供するのを仕事にするかたわら、アパート管理人を兼務している。決まったスケジュールどおりに日課をこなし、きっちり掃除をすることがささやかな自慢だ。
「この男が、人生とは、などと考えることはあるだろうか。その意味は、要点は――。これから三十年、四十年、まったく同じように生きていくことを思い悩んだりしないのか。それは誰にもわからない。問おうとした人もいないだろう」と語り手は言う。誰からも関心を持たれそうにない、マイカのような人間が、はたして小説の主人公にふさわしいのか、と読者は疑問を持つかもしれない。しかし、そんな疑問は無用である。なぜなら、作者のアン・タイラーがマイカに大きな関心を寄せ、彼の心のうちを共感を持って描き出すからである。
「人間を相手にしていると、海辺の遊歩道でクレーンゲームでもしているような、もどかしい気分になることがある。シャベルみたいなもので景品をすくい取ろうとするのだが、操作への反応が重くて、その距離感がもどかしい」。このように、マイカというキャラクターにぴったりと寄り添った作者のまなざしは、悪くすると灰色一色に染められてしまいそうな小説世界をやわらかな光で包む。それがアン・タイラーの独特な世界なのだ。
そんなマイカに、単調な生活を乱すような出来事が起こる。彼を実の父親だと思い込んでいるらしい青年が不意に現れ、その余波で、つきあっていた女性から別れを告げられる。この二つの事件の展開が、物語を動かす中心的な力になる。
アン・タイラーがつねに信を置いているのは、人間の善良さである。とりたてて特筆できるような点を持ち合わせていないように見えるマイカでも、パソコンに弱くて彼のサービスを求める人々から見れば救いの神だ。祖母の遺品だった高級なコンピュータのパスワードがわからずに困っていた若い女性にとって、それを見つけてくれたマイカは魔法使いに見えたに違いない。いやそれだけではない。コンピュータを修理するように、マイカは人間関係を修復することもできる。彼のおかげで、家出をしていた青年は無事に両親のもとに戻って仲直りする。
こうして、結末ではマイカの生活にふたたび安定が訪れる。最初の状態が回復するのは、アン・タイラーの小説に見られる典型的なパターンだ。しかし、最初と最後の状態はまったく同じかと言えば、そうではない。そこには微妙な変化がある。物語の過程で、完璧主義者だったマイカは、現実を多少は受容することを学び、女友達とよりを戻す。「いったん切って、また電源を入れる」だけのことかもしれないが、マイカのみならず、わたしたち読者もこの小説を読んですっかり再起動したような気分になれる。