書評

『オリーヴ・キタリッジの生活』(早川書房)

  • 2020/10/05
オリーヴ・キタリッジの生活 / エリザベス・ストラウト
オリーヴ・キタリッジの生活
  • 著者:エリザベス・ストラウト
  • 翻訳:小川 高義
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(460ページ)
  • 発売日:2012-10-04
  • ISBN-10:4151200703
  • ISBN-13:978-4151200700
内容紹介:
アメリカ北東部にある小さな港町クロズビー。一見何も起こらない町の暮らしだが、人々の心にはまれに嵐も吹き荒れて、いつまでも癒えない傷痕を残していく。住人のひとりオリーヴ・キタリッジ… もっと読む
アメリカ北東部にある小さな港町クロズビー。一見何も起こらない町の暮らしだが、人々の心にはまれに嵐も吹き荒れて、いつまでも癒えない傷痕を残していく。住人のひとりオリーヴ・キタリッジは、繊細で、気分屋で、傍若無人。その言動が生む波紋は、ときに激しく、ときにひそやかに周囲に広がっていく。人生の苦しみや喜び、後悔や希望を静かな筆致で描き上げ、ピュリッツァー賞に輝いた連作短篇集。

交錯する人生、細部に宿るよるべなさ

オリーヴ・キタリッジは、アメリカ北東部の田舎町に住む元教師で、ヘンリーという名の夫は薬局を経営している。彼らの一人息子のクリストファーは無口な子供だったが、成人して「足の医者」になり、その後二度結婚する。オリーヴは大柄な女で、頑固で、思考にも行動にも甘ったるいところがない。ずけずけ物を言うので、町の住人のなかには彼女を嫌っている人もいる。ヘンリーは穏やかな性質の男で、やさしいのでみんなに好かれている。この二人が夫婦だというのはおもしろいことだけれど、格別珍しいことでもないわけで、ええ? あの二人がなぜ? とか、どこがよかったんだろう、とか、どうやって気持ちを伝えあったんだか想像もつかない、とか、周囲が思う夫婦はたくさんいる。大事なのは“なぜ”でも“どんなふうに”でもなく、“ともかく”“事実として”“厳然と”夫婦だということで、エリザベス・ストラウトの筆は、冷徹なまでに彼らを、そして世の中を、そう扱う。事情はどうあれ、そうなんだから仕方がないでしょう、というふうに。

世の中――。これはある町に住む人々を描いた連作短編集で、だから世の中について書かれた小説だということもできる。一編ずつの完成度の高さは瞠目(どうもく)に値する(誤解を恐れずに言えば、昔、英語の教科書やサブテキストで読んだ“名作”みたいだと思った)のだが、十三編通して読んだあとの印象は、断然長編小説のそれだ。両方味わえる。優れた短編小説の醍醐味と、質のいい長編小説の持つ豊かさと。

登場人物がたくさんいる(オリーヴ・キタリッジはそのなかの一人にすぎない。でも、彼女は自分が主人公ではない短編にも、ヒチコック映画のヒチコックみたいに顔をだす)。

たとえば、アンジェラ・オミーラは、週に四日、<ウェアハウス・バー&グリル>という店でピアノを弾く。そろそろ五十歳になるこの赤毛の女性は独身で、でも二十二年つきあっている恋人がいる。アンジェラの、ある一夜を描いた繊細かつリリックな一編が『ピアノ弾き』だが、作中で、店に来た客のヘンリーのために、彼女は「おやすみ、アイリーン」という曲を弾く。彼女とヘンリーのあいだに特別な関係はなく、彼女はただ仕事だから、そしてヘンリーがいい人だから弾くのだ。

たとえばハーモンという男性には妻も子供もいて、でもデイジー・フォスターという、夫と死別した女性の家に足繁く通っている。そこに、ひょんなことから若い女が登場する。ハーモンは妻とデイジーのあいだを往き来しながら、この若い女を自分とデイジーの娘であるかのように、勿論(もちろん)違うとわかりながら錯覚する。たびたびでてくるドーナツの描かれ方が秀逸な、『飢える』というこの一編のなかで、ハーモンはデイジーの家で、ばったりオリーヴにでくわす。ハーモンとオリーヴのあいだに特別な関係はないのだが、オリーヴとデイジーは親しいので、そういうことも起こる。

すこしずつ、すこしずつ物語がつながっていく。一つの町を舞台に、たくさんの人生が交錯する。彼らの人生を観察して写しとる作者の手つきは冷静そのもので、オリーヴ・キタリッジの性質同様に、容赦がない。

すべての登場人物に、語られない場合でも両親がいて、子供時代があり、屈折やら喜びやら失望やら、他人に言わないことや見せないものや、思い出や欲望や紆余曲折があり、でもそれらは当然の前提で、わざわざ書くまでもないでしょう、というふうに、エリザベス・ストラウトは書くのだ。

そして、細部。細部、細部、細部。意地悪なほどたっぷり描写される細部によって、人の性質も人生も、否応なくあぶりだされてしまう。ハーモンのドーナツしかり、オリーヴのドレス(『小さな破裂』)しかり。緑色のふんわりしたモスリン地に、赤みの強いピンクのゼラニウムがプリントされたそのドレスを、オリーヴは息子の最初の結婚式の日に着る。生地が気に入って、オリーヴ自ら縫ったこのドレスをめぐってちょっとした事態が発生するのだけれど、晴れた、美しい六月の午後のこの場面は、小さいけれど鋭い棘のように、オリーヴのみならず読んだ者にまでささる(小説には、棘のささったオリーヴの、驚くべき“仕返し”も描かれる)。

おもしろいのだ、結局のところ人というものは。夫婦、親子、友人。様々な形で結びつきながら、不安定で、よるべがない。そのよるべなさが、こういう小説になる。

主要登場人物たちの平均年齢が高いので、そこには老いや諦念や、病や死や、共有もしくは理解の否定、としての沈黙が横溢している。それでもなお、人生の艱難辛苦と同時にある種のフェアさが、その人生に翻弄される人間の、複雑さや厄介さと同時に優雅さが、読みすすむうちにひたひたと胸に満ちて、小説ってすばらしいなあと思わせる一冊なのだった。
オリーヴ・キタリッジの生活 / エリザベス・ストラウト
オリーヴ・キタリッジの生活
  • 著者:エリザベス・ストラウト
  • 翻訳:小川 高義
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(460ページ)
  • 発売日:2012-10-04
  • ISBN-10:4151200703
  • ISBN-13:978-4151200700
内容紹介:
アメリカ北東部にある小さな港町クロズビー。一見何も起こらない町の暮らしだが、人々の心にはまれに嵐も吹き荒れて、いつまでも癒えない傷痕を残していく。住人のひとりオリーヴ・キタリッジ… もっと読む
アメリカ北東部にある小さな港町クロズビー。一見何も起こらない町の暮らしだが、人々の心にはまれに嵐も吹き荒れて、いつまでも癒えない傷痕を残していく。住人のひとりオリーヴ・キタリッジは、繊細で、気分屋で、傍若無人。その言動が生む波紋は、ときに激しく、ときにひそやかに周囲に広がっていく。人生の苦しみや喜び、後悔や希望を静かな筆致で描き上げ、ピュリッツァー賞に輝いた連作短篇集。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2011年2月13日

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