奴隷ジムが1人称で「ハック」と冒険
自然児ハックルベリー・フィンが、黒人の逃亡奴隷ジムといっしょにミシシッピ川を筏(いかだ)で下って、様々な冒険に巻き込まれる、あの偉大なアメリカ文学を、ジム視点で書きなおした小説。そう聞けば、それだけで、読みたくなる人は多いに違いない。
私自身、その一人なのだが、読む前に多少の危惧はあった。マーク・トウェインが19世紀末に書いた小説は、現代から見れば奴隷制度に対する批判が弱かったり、ハックの語り自体に差別的な表現が多かったりして、批判も多い。それは理解した上で、しかし、政治的正しさを意識した『ハック』が、果たしておもしろいのか。説教臭が漂ったりはしないのか。
結論から言うと、それはとんだ杞憂(きゆう)だった。『ジェイムズ』は、のっけから、ものすごくおもしろかったのだ。『ハック』を初めて読んだときとほぼ同じようなのめりこみ方で、一気に読了した。
しかも、そのおもしろさの根源は、『ハック』を無邪気に楽しんで読んできた自身の脳天をかちわるような衝撃にあった。
まず初めに、書き手が使う一人称の「私」に仰天させられた(日本語訳者によって周到に選ばれた主語だろう)。しかし、別の場面、白人相手の会話の中では、彼は自分を「わし」と言う。
この小説の中で、黒人奴隷たちは、白人向けにいわゆる「役割語」としての奴隷言葉をしゃべっているが、白人のいないところではプロパーな英語を話す。古い物語の中の黒人は「~するだ/~しねえだ」としゃべるものという、そもそもの思い込みが偏見だと、読者は、まず気づかされる。
黒人たちが「役割語」を話すのは身を守るためだ。愚かさを演じたほうが、白人たちを喜ばせるし油断させもする。支配者より劣った存在を自ら演じる姿には、ときに「バカなふり」が女性の護身術として機能すると言われることを、女性読者としては思い浮かべた。
物語は、ハックが虐待する父親から逃れるために自分の死を偽装し、売られると知って逃亡したジムといっしょに逃げる、『ハック』読者にはおなじみの話が発端になっている。王様と公爵も登場する。でも、『ハック』にはけっして描かれなかったジムの行動が、やはり、この小説の肝である。
「本なんてわしが触ってどうするだ?」と、ミス・ワトソンにジムは言うのだが、じつは、彼は読み書きもできる。サッチャー判事の図書室にこっそり侵入して、思想書まで読んでいる。毒蛇に咬(か)まれてせん妄症状の出た彼は、夢の中でヴォルテールと対等に議論さえする。それをハックに聞かれてしどろもどろになるシーンは笑いも誘う。「読み書き」はジムのアイデンティティの根幹をなすものであり、ことに「今ここに刻んでいる文字がいかにして意味を持つのか」と彼自身が書く一文は重い。
奴隷制の残酷さと非人道性はこれでもかと描かれつつ、息をのむ展開に目が離せない。白人が黒人の真似(まね)をする「ミンストレルショー」も重要な題材になっていて、仮面とその下に隠されたものが、幾重にも映し出される。
原典の『ハック』は、ハックの父親に関する驚きの事実が露呈して終わるのだが、それを上回る驚きが用意されていることにも、胸を熱くさせられた。