書評
『われらが背きし者』(岩波書店)
スパイ小説、語りに仕掛け
オックスフォードの元教員ペリーは彼の恋人で弁護士のゲイルと訪れたカリブ海のリゾート地で、ロシア人の富豪ディマからテニスの試合を申し込まれる。だが、武装した護衛に守られ、5人の子供たちと信心深い妻と暮らすこのディマの真の目的は、テニスの試合ではなかった。ロシアの犯罪組織の幹部でマネーロンダリングの専門家であるディマからメッセージを託されたペリーは、英国諜報部に接触する。彼は恋人を危険な企てに巻き込みたくないが、ディマの美貌の娘ナターシャの秘密を知ったゲイルは、ひるむことなくペリーと行動を共にする。そしてこの二人を、一匹狼的な諜報部上級職員ヘクターが腹心の部下らとバックアップする。
ディマが組織を裏切り、命を賭してまで伝えようとする国際金融市場に関する情報とは? この情報の信憑性をめぐって諜報部内に生じる対立の行方は?
思えばスパイ小説ほど不自由なものはない。国家に脅威をもたらす謎が提示され、その解明が秩序の回復をもたらすというパターンを踏襲せねばならないのだから。にもかかわらず、ル・カレがこれほど〈読ませる〉のはなぜか?
語りに多くの仕掛けがなされているからだ。前半に多用される回想シーンは、先を急ごうとする読者の好奇心をかき立てる。登場人物たちもまた、主人公のペリーとゲイルに劣らず、個々の犯罪者、諜報部員が、内的な苦悩と葛藤とともに立体的に造形されている。冒頭とクライマックスで重要な役割を果たすテニスの試合など、細部が実に有機的に連動している。
だが冷戦期に国家間の対立を軸に発展したジャンルであるスパイ小説は、国家が脱領域・脱中心化されたグローバル市場時代のいま、どのような結末を持ちうるのか? それが一国家の秩序の回復という終点に〈着地〉できるはずがないのは明らかである。
朝日新聞 2013年01月06日
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