憑依で生み出されたかの世紀の奇書
断言しよう。本書はまぎれもなく、21世紀における最大の奇書の一つである。SFのロジックと幻想小説の奇想をあわせもち、圧倒的なボリュームで読者をねじ伏せにくる。平均3行に一つは奇想天外なアイディアが繰り出されるため読みやすいとは言えないが、「とんでもないものを読んでしまった」という感慨は、あの劉慈欣『三体』に優るとも劣らない。著者の西尾康之は、現代美術界ではつとに知られた作家で、「陰刻鋳造」という技法を駆使するほとんど唯一の彫刻家だ。粘土の原型から石膏で鋳型を作り、そこに石膏を流し込んで原型と同じ像を得るという通常の鋳造手法に対し、陰刻鋳造ではいきなり粘土に指を押しつけて窪(くぼ)みを作り、これをそのまま鋳型として石膏を流し込む。銅鐸(どうたく)も同様の製法だったというが、西尾は鋳型を自身の指だけで作る。そのせいかどうかわからないが、西尾の鋳造作品は「活(い)きのいい死体」とでも言うべき矛盾した印象を醸し出す。疑う者は「Crash セイラ・マス」で画像検索されたい。
驚くべきことに著者は、小説という形式で、自身の彫刻作品とほぼ同質の印象をもたらすことに成功している。それもそのはずで、本書のテーマは「不死」だ。このタイトルは、いかなる意味でも隠喩や象徴とは無関係だ。描き出されるのは文字通り「人が死ななくなる未来世界」の物語なのだから。復活でも霊魂でも業績でもなく、単に人間は死なない身体を手に入れたのだが、そうなった経緯は不明である。ただ、不死によって社会的な問題のほとんどは解決し、出生率はゼロとなり、社会は今や政府ではなく、神にも等しい「HC」と呼ばれる人工知能が管理する。評者としては、もし「不死」が実現したら人間は思考をやめ、欲望を失うと予想するが、本作ではそうした哲学的思弁に深入りすることはない。
この社会で探求されるのはむしろ「死」の可能性である。どうすれば人間は死ねるのか。なにしろ肉体を分子レベルまで分解しても、謎の作用で人体が蘇生されてしまうのだ。そこで登場したのが変身派だった。彼らはさまざまな物体に変身してその状況を楽しむ。ある男性は体を液化して本の成分に変え、120巻の大著となって読者と一体になる素晴らしさを120年間味わい、それを人々に伝えるべく人間に戻る。
かくして死な(ね)ない身体という設定から、ありとあらゆる奇想が導き出され、展開されていく。たとえ食人しても分子が固有性を持っているので吸収一体化はおこらない。事故などで断片化された身体は、HCが何年間もサルベージし蘇生を助ける。さらには「不死」のストレスから人類は「移動」支持者と「定着」支持者に二分される。前者は海洋や宇宙空間を目指し、後者は生物相から離脱して本や牛乳に姿を変える。終盤に至っては、不死の側から性愛を描くという、まさに陰刻鋳造めいたラブストーリーが展開されていく。
著者は本作の執筆に一カ月間、寝食を忘れて没頭し、危険を感じた妻の禁止でようやく擱筆(かくひつ)したという。あたかも「不死」というテーマが著者に憑依して物語を書かしめたかのような、異様な迫力はそれゆえかもしれない。