言葉で作り出すもう一つの生
本書は、怪奇幻想文学の巨匠として、我が国でも平井呈一の個人全訳による『アーサー・マッケン作品集成』全六巻などを通して、古くから親しまれてきたアーサー・マッケンの自伝『遠つ世のこと』と『遠近草(おちこちぐさ)』を合わせて一冊にしたものである。ウェールズの山中にある牧師館の息子として育った幼少時代から、ロンドンで生活を支えるために長年勤務した新聞社を一九二一年に五八歳で辞めるまでが綴られているが、もちろん著者が著者だけに、普通の自伝ではまったくない。たとえば、二四歳で結婚し、三六歳のときにその愛妻を癌で失ったという人生の重大事も、ほとんどそれとわからないような言葉でたった一行触れられているだけである。マッケン本人の言葉を借りれば、穢らわしい書物だとして「人形のコップの中の嵐」を巻き起こした『パンの大神』をはじめとする怪奇小説の愛読者から見ると、世紀末におけるマッケンとオカルティズムの関わりが本書の読みどころの一つだろう。ただ、わたしが最も興味を惹かれたのは、マッケンの代表作と呼ぶにふさわしい、名作『夢の丘』に言及しているくだりだ。
「幼少年期を過ごした土地の姿形から、私自身がうけとった驚異と畏怖と神秘の漠然とした印象を再現する物語をつくること」。マッケンは「いつか書きたいと思っている偉大なる書物」として、そんな構想を打ち明けているが、実はそれがすでに出版されていた『夢の丘』に他ならない。この自伝で描かれている自然の景色と心象の景色は、そっくりそのまま、『夢の丘』における主人公の青年ルシアン・テイラーという孤独な魂の風景に重なっている。
本書で描かれている、マッケンが生きた一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけては、次第に技術革新が進み、あらゆるものが変化して、急速に現代社会へと移行していく時代だった。そうした流れの中で、「我々が普通人生と呼ぶものは人生などではない」と思い定め、「現実の生を耐えられるものにする」ためにもう一つの生としての幻想世界を言葉で作り出そうとしたマッケンは、必然的に時代から取り残されていった。本書に収められている自伝二冊が出版された時期は、文学の世界でもいわゆるモダニズム文学が台頭する頃であり、ディケンズを愛好するようなマッケンの文学観はすでに古びて見えたはずだ。
だから、マッケンが『夢の丘』を指して「精神の『ロビンソン・クルーソー』」と呼ぶとき、それはそのまま本書に、そしてその中で描き出された、「貧乏と孤独と倦怠と幻滅」の日々を送りながらもひたすら書きつづけようとするマッケンの姿にも当てはまる。精神的にも孤独であるからこそ、その無人島のような世界で発見するささやかな事物を、マッケンは驚異の目で見ることができた。いかに科学が進歩しても人間には宇宙を理解することなどできないと信じていたからこそ、宇宙を説明のつかない驚異に満ちたものとして見ることができた。
そのときから百年経った現在でも、言葉の錬金術師たるマッケンの文章は、独特の輝きを失っていない。百年前、いやさらにその前の「遠つ世」へと誘ってくれる、南條竹則氏の達意の翻訳もまたみごとの一言に尽きる。