誇大妄想狂的な側面が臆面なく露出
わたしたちがSFと呼んでいるジャンルは、一九二〇年代に、アメリカのパルプ雑誌から誕生した。そうした初期のSFは、科学が切り開く明るい未来を信奉する、いかにもアメリカらしい楽天的な世界観によって裏打ちされていた。それに対して、一八九五年に『タイム・マシン』を発表したH・G・ウェルズをはじめとして、イギリスの科学小説家たちはまったく独自の道を行き、大衆小説色の強いアメリカ産のSFがあたかも存在しないかのようにふるまった。独特の海洋綺談(きだん)を得意としたウィリアム・ホープ・ホジスン、ウェルズの後を継ぎ、壮大なヴィジョンの人類史を描いたオラフ・ステープルドンといった作家たちを挙げることができる。今回、帯に「幻想文学の金字塔」と謳(うた)われた代表作『紫の雲』(一九〇一年)がようやく翻訳された、M・P・シールもそうしたイギリス科学小説家の一人である。しかし、M・P・シールの厄介なところは、そうやってひとくくりにできない突出ぶりにある。「金字塔」とはよく言ったものだ。『紫の雲』は喩(たと)えてみれば古代のピラミッドのようなものであり、さらに正確を期せば、巨石が立ち並ぶストーンヘンジの遺跡のように、これを作ったのは地球に飛来した宇宙人かと思わせる奇観を呈している。
『紫の雲』の物語の組み立ては、ほぼ最小である。地球に突如接近してきた謎の雲によって、地上のあらゆる動物がほとんど全滅する。主人公のアダム・ジェフソンは、そのときに北極点に単独で到達したため、偶然にも生き残った。他にも生存者がいないか、彼は船などの移動手段で世界中を旅することになる……。
このようにストーリーをまとめれば、それはSFのサブジャンルの一つでもある、いわゆる「終末物」に分類されるだろう。しかし、『紫の雲』がそうした一般的な終末物と一線を画するのは、人類の終焉(しゅうえん)に面した主人公の態度にある。彼は人間という存在に対して底知れぬ嫌悪感を抱いており、ロンドンをはじめとして、世界中の都市を次々と焼き払う。そして、「全世界は私一人のために造られた」という認識の下に、破滅して自分だけが生き残った世界をユートピアの実現だととらえるのだ。こうして、この小説の半分以上は、死体の山が積み上げられた世界の描写に費やされる。ここには紛れもなく、奔放な想像力といったおざなりの言葉ではすまされない、作者M・P・シールの誇大妄想狂的な側面が臆面もないかたちで露出している。
主人公は無人の王国に十六年間暮らした後、コンスタンチノープルで、もう一人の生存者である女性レダを発見する。ここから『紫の雲』は、SF読者にはおなじみの「アダムとイヴ」物へと傾斜していくのだが、その展開も、己を孤高の存在だと思いたい気持ちと、女性という他者が持つ抗(あらが)いがたい性的魅力が、作者の内心で拮抗(きっこう)していた表れだと読むことができるだろう。
M・P・シールの小説は、小説技巧を云々(うんぬん)することでは語れないような、原始的な力を持っている。それはすでに名前を挙げたイギリスの科学小説家たちにも概して言えることだし、アメリカの作家ではただ一人、やはりSFとは無縁だった怪奇小説家のH・P・ラヴクラフトについても言えることだ。わたしたち現代読者は、こうした誇大妄想狂的な作家たちの作品を読んで、大いに辟易(へきえき)しながらも、そこに現代小説には発見できないような生々しい力を見つけ、曰(いわ)く言い難い魅力を覚えてしまうのである。