「文体」が主役の数学的証明
この本を読んでいて、真っ先に思い出したのは、中学のときに幾何を教わった先生のことだ。その先生は変わった人で、持ってきた図形の証明問題の難問を前にして、教壇ですっかり考えこんでしまう。そうして二、三十分が経過してから、黒板に富士山の絵を描いてこう言うのが癖だった。「富士山の登り方は1つではないんだね。こっちから登ってもいいし、あっちから登ってもいい」『1つの定理を証明する99の方法』という、魅力的なタイトルが付いた本書で扱われている定理は、べつに富士山のような高山ではない。「もしもχ3―6χ2+11χ-6=2χ-2が成り立てば、χ=1かχ=4である」という、高校生なら理解できる3次方程式を扱ったもので、そこから数学という山をさまざまな角度で眺めようとするのが本書だ。だから、数学が不得手な読者でも、登山のような苦行を想像して尻込みする必要はない。
著者のフィリップ・オーディングがこのアイデアをどこから得たかと言えば、富嶽百景ではなく、実験文学集団ウリポの一員として知られる作家、レイモン・クノーの『文体練習』だ。1つの物語を99の文体で書き分けたこの作品に倣いながら、数学的な制約を文学に持ち込むクノーの試みを反転させて、著者は文学的な手順を数学に応用し、数学と文学のあいだにアナロジーを見て取ろうとする(たとえば、「代入」という操作がメタファーの機能に等しいとか、「背理法」がアイロニーに似ているという指摘には、なるほどと肯かされた)。だから、本書で主役を演じるのは、証明の「方法」というよりはむしろ証明の「文体」である。そこには、まさしく百年一日のように変わらない、「散文のように大げさ」な、数学的証明のスタイルに対する異議申し立てがある。
こうして、本書では代数学、幾何学、トポロジーといった数学の主要分野が引き合いに出されるだけでなく、古代から中世、そして現代に至る数学の歴史も取り上げられるし、コンピュータのようなツールも話題になる。つまり、さまざまなスタイルを提示しながら著者がわたしたちに見せてくれるのは、広範な数学の「文化」なのである。
その意味で、わたしにとって「99の方法」の中でいちばん印象的なのは、「黒板」と題するセクションだった。証明が「視覚的に共有され」「段階を踏んで進み、それぞれの段階で聴衆が異議を申し立てられる」という点で、板書の技術を決して無視できないものだと考える著者は、こんなエピソードを披露する。「筆者自身も日本の高名な結び目理論の専門家に、黒板に結び目を書くときの黒板消しの使い方が悪いといって叱(しか)られたことがある」。この例にも見られるように、さまざまなスタイルすなわち思考のありかたがぶつかり合う協働の場を模索することが、数学をより開かれた世界にする道だと、著者は考えている。
遊びの精神に満ち溢れた本書を、数学だけの本にしてしまうのはもったいない。わたしたちは「数学」の代わりに、たとえば「文学」といったタームを「代入」して、そこにどんな「99の方法」があるか、想像してみてもいい。そうすれば、この本の世界はさらに広がっていくだろう。