純粋に考える→人間の可能性広がる
数学とくに計算と聞くと、この本を手に取る気もしなくなる人がいるかもしれない。計算はいわば無機的で、徹底したやかましい手続きである。そんなことがどうして意味と関係があるのか。計算なんて、意味がないに決まっているじゃないか。だから現代では機械にやらせてるんだろ。ところが著者は数学の歴史をたどりながら、計算という操作と理解との関係をめぐって、現代の人工知能に至るまでの歴史を平易かつ明快に語る。本書ほどに明解であれば、評者が余計なことを言う必要はない。実際に本書を読んでくださればいい。それでは書評にならないので、蛇足を付加しよう。政治や経済についての現代社会のごちゃごちゃを読んでいると、物事を基礎からきちんと考えるというのは、こういう風にすがすがしいことだったか、と感じてしまう。全体は五章に分けられ、第一章「『わかる』と『操る』」では計算の歴史的な成立過程を説き、複素数を例にとって、計算という操作が思わぬ理解の地平を広げることを説明する。第二章「ユークリッド、デカルト、リーマン」は数学史であって、著者はそれを体験として語るといってもいいと思う。どうして過去のことを体験できるのか。それは著者が先人の考えを自分で体得するに至るまで辿ったからであろう。数学は「自分で考える」もので、人から教わるものではない。ふつうは「そんなこと考えてなんになる」「時間がかかってしょうがない」とか思い、考えること自体を放棄する。
著者は「数学の演奏会」と称して、さまざまな普通の人を集めて、数学に関する講義をする。これは数学をまさに体得していなければ、できないことである。幸か不幸か、コロナでそれができなくなって、この本ができた。読み終わって、評者自身はまことにすがすがしい思いがあった。純粋にものを考えるとは、なんと気持ちのいいことか。そうしたことをしなくなってずいぶん長いことになる。悪い意味で歳をとったなあと感じてしまった。読んでいる間にも、あのことについて、もっと考えておくべきだった、と感じる部分も多くあった。考えれば、もっと先があったんだ、とか、もっと奥が深かったんだと思うことも一度ならずだった。
第三章は次のように始まる。「数学は現実を描写するだけの言語でもないし、単なる知的パズルでもない。数学はしばしば、人間がそれまで経験したことがなかった、新しい認識の可能性を開拓してきた/古代ギリシアの論証的な幾何学は確実で明晰な認識(・・・・・・・・)があり得ることを人間に教えた。人間の認識は通常、曖昧で漠然としたものでしかない。それでも、生活上の認識としては十分だ。ところが、古代ギリシャ幾何学の特殊な設定のもとでは、誰にとっても『確実』と信じられるような論証を遂行することが可能なのである」。ここからカント、フレーゲ、ラッセルのパラドクスへと話は続き、第四章の「計算する生命」でウィトゲンシュタイン、人工生命にまで至る。
終章は「計算と生命の雑種(ハイブリッド)」と題され、計算に依存する現代社会が論じられる。ここで読者諸氏はなにを想うであろうか。私自身はしばし考え込んでしまった。