庭にいるすべてのカタツムリの数をどう推測するか?
4歳になるわたしの息子は、庭で遊ぶのが大好きだ。なかでも気に入っているのが、地面を掘り返したりしてもぞもぞと這い回る虫を調べることで、特にカタツムリが好みだ。辛抱強く待っていると、追い立てられたショックから立ち直ったカタツムリが、安全な殻のなかからそろりと頭を覗かせて、するすると進み始め、あとにはネバネバした液が残る。だが最後には息子も飽きてしまい、無情にも、せっかく捕まえたカタツムリを堆肥の山や小屋の後ろに積まれた薪の山に放り出す。去年の9月の終わり頃、息子は大きなカタツムリを5、6匹捕まえて、いつも通り熱心に観察した後に放してやると、暖炉の薪を作っているわたしのところにやってきた。「ねえパパ、この庭にはカタツムリが何匹いるの?」。この一見簡単そうな質問に、わたしはうまく答えられなかった。100匹かもしれないし、1000匹かもしれない。正直いって、息子にその違いがわかるとも思えない。けれどもその問いは、わたしの好奇心を刺激した。どうやったらうちの庭にいるカタツムリの数をはじき出せるのか。
そこでわたしたちは実験をすることにした。その次の週末、正確には土曜日の朝に、まず庭に出て2人がかりでカタツムリを捕まえた。10分かけて、計23匹の陸に棲息する殻を持つ腹足類、つまりカタツムリを捕まえることができた。そこでわたしは尻のポケットから油性マーカーを取り出して、捕まえたカタツムリの殻に小さな×印をつけていった。すべてのカタツムリに印をつけ終えたところでバケツをひっくり返して庭に放す。
1週間後、2人がかりでもう1度カタツムリを捕まえた。今度は同じ10分で、18匹しか捕まらなかった。その18匹の殻を調べてみると、×印がついているカタツムリは3匹で、残りの15匹には印がついていなかった。ここまでわかれば、計算ができる。
どう考えるかというと……。1回目に捕まえた23匹のカタツムリは庭にいるカタツムリ全体の一部であってわたしたちはこのカタツムリの総数を知りたい。今、捕まえたカタツムリが全体に対してどれくらいの割合なのかがわかれば、捕まえたカタツムリの数を何倍かして、庭にいるカタツムリの総数を求めることができる。ここで、2回目のサンプル(1週間後の土曜日に捕まえたカタツムリ)の出番となる。2回目のサンプル全体に対する×印のついた個体の割合、つまり3/18は、庭にいるカタツムリの総数に対する印のついた個体の割合と等しいはずだ。そこでこの値を整理すると、×印がついたカタツムリは、カタツムリ全体の6匹につき1匹であることがわかる。そこで、1回目に捕まえて印をつけた23匹という数を6倍すると、庭にいるカタツムリの総数として138匹という値が得られる。
わたしは暗算でこの値を求めると、捕まえたカタツムリの「面倒を見ている」息子に向き直った。そして「庭にはざっと138匹のカタツムリがいるんだよ」といった。すると息子が、なんといったと思います? 「あのねパパ……」。息子はうつむいて、指先についた殻のかけらを見ながらいった。「ぼく、1匹死なせちゃった」。こうしてうちの庭のカタツムリは、137匹になった。
この単純な数理的手法は「捕獲再捕獲法〔標識再捕獲法とも〕」と呼ばれている。もともとは生態学で動物の頭数を推定するために考案されたものだが、みなさんもこの方法を使ってみてほしい。具体的には、2つの独立したサンプルを採ってみて、その重なりを調べればよい。実際の数を根気強く数えずに、地元のお祭りで売れた慈善くじの数を見積もりたいときや、半券を使ってサッカーの試合の観客をざっと見積もりたいときには、この方法が使える。
捕獲再捕獲法は本格的な科学プロジェクトでも使われている。この方法を使うと、絶滅の危機にあって個体数が変動している種などに関する重要な情報を得ることができる。たとえば湖にいる魚の数を見積もることができれば、漁業者は遊漁券を何枚くらい発行すればよいかを決められる。この方法はきわめて効果的で、生態学だけでなく、全人口のなかの薬物依存者の数からコソボにおける戦死者数まで、さまざまな見積もりを正確にはじき出すことができる。ごく簡単な数学的概念に、じつはここまでの力があるのだ。この本では一貫してこれらの概念について調べていくことになるが、それはまた数理生物学者である筆者が、ごく普通に日々の仕事で使っている概念でもある。
数学を使えばほぼすべての事柄を記述できる
初対面の人に「わたしは数理生物学者です」というと、相手はたいてい丁重にうなずいておいて、困ったように黙り込む。二次方程式やピタゴラスの定理を覚えているかどうかテストされるんじゃないか、と怯むだけでなく、数学みたいに浮世離れした抽象的で純粋な学問が、概して実務的でゴタゴタと面倒で現実的とされている生物学と関係しているなんて、そんなことがあるだろうか、と頭をひねり始めるのだ。ほとんどの人が学校時代に、数学と生物は金輪際交わることがない、という偽りのイメージを植えつけられる。理科は好きだが代数には夢中になれない場合、その生徒は生命科学系に押しやられる。そしてわたしのように、理科は楽しいと思うけれど死骸を切り刻みたくない生徒は(かつてわたしは、解剖の授業で実験室の自分の席につこうとして、そこに魚の頭が置いてあるのを見て気絶したことがある)、物理学へと誘導される。数学と生物学、この2つは決して交わることがないのだ。わたしの場合がまさにこれで、第6学年〔日本の高校3年〕で生物から落ちこぼれ、数学と物理と化学でAレベル〔一般教育終了上級レベル=大学に入学できるレベルにあることを示す認定〕を取った。大学ではさらに自分の専門に邁進する必要があったのだが、永遠に生物とおさらばしなければならないと思うと悲しかった。なぜなら、生物学には人生をよりよい方向に変える途方もない力があると考えていたからだ。これからは数学の世界にどっぷり浸かれるというので大いにわくわくしたけれど、現実にはほとんど応用できそうもない学問をすると思うと──じつは、まったくそうではなかったのだが──やはり不安だった。
中間値の定理の証明やベクトル空間の定義を暗記して大学で教わる純粋数学をこつこつと学ぶ一方で、応用数学の講座がわたしの生きがいとなった。橋を建設する際に橋が風に共振して崩壊してしまわないようにするための数学や、飛行機が絶対に落ちることがない翼を設計するときに使う数学を紹介する講師の話に聞き入った。さらに、物理学者たちが原子より小さい規模で生じる奇妙な振る舞いを理解するために用いる量子力学や、光の速度が変わらないという事実がもたらす奇妙な結果を巡る特殊相対性理論を学んだ。そしてまた、数学が化学や経済や金融にどう使われているかを解説する講座を取った。スポーツに数学を応用することで、トップ・アスリートのパフォーマンスがいかに強化されているか、映画に応用することで、現実には存在することのないCG画像がどのように創り出されているかについての文献を読んだ。早い話が、数学を使えばほぼすべての事柄を記述することができる、ということを知ったのだ。
大学院の3年目に、運よく数理生物学の講座を取ることができた。講師は北アイルランド出身で40代のフィリップ・マイニという魅力的な教授だった。彼はその分野で傑出していただけでなく(後にロイヤル・ソサエティーのフェローに選ばれることになる)、どこからどう見てもその学問が大好きで、講義を受ける学生にもその熱意が伝わってきた。
フィリップはわたしに、単に数理生物学を教えてくれただけではない。数学者は巷でよくいわれるような数学一筋の自動人形ではなく感情を持つ人間なのだ、ということを教えてくれた。数学者は、かつてハンガリーの確率論者レーニ アルフレードが述べたようなただの「コーヒーを定理に変える機械」ではない。フィリップの研究室で腰を下ろし、博士号取得に向けた面談が始まるのを待っていたわたしは、壁に額がたくさんかかっているのに気がついた。それは、フィリップが冗談半分でプレミア・リーグのクラブに送ったマネージャー・ポストへの応募の手紙に対するさまざまな断りの手紙だった。というわけでわたしたちはけっきょく、数学よりもサッカーについて多くを語り合うことになった。
わたしの大学での研究にとって決定的だったのは、その時点でフィリップが生物学との旧交を温められるようにわたしを後押ししてくれたことだ。フィリップの指導の下で博士課程を過ごしたわたしは、イナゴがどのように群れを作るのか、どうすれば群れを作るのを阻止できるかといったことから、ほ乳類の胚がいかに複雑な段階を踏んで発展していくか、それらの段階での同調性に乱れが出たときにいかに破滅的な結果が待っているかといったことまで、ありとあらゆることについて研究した。鳥の卵にどのようにして美しく着色されたパターンができるのかを説明するモデルを作り、自由に泳ぎ回るバクテリアの動きを追跡するアルゴリズムを書いた。人間の免疫システムをすり抜ける寄生生物をシミュレーションし、致死的な病気が人々のあいだに広がる様子をモデリングした。博士課程で始めた研究は、以来一貫してわたしのキャリアの基礎になっている。そして今もわたしは、生物学をはじめとする分野のこれらのじつに魅力的な領域で研究を行い、博士課程の学生を抱え、現時点ではバース大学の応用数学の准教授(上級講師)をしている。
パターンとモデル
応用数学者であるわたしにとっての数学は、何よりもまず、この複雑な世界を理解するための実用的な道具である。日常のさまざまな場面でも、数学的なモデルを作ることで優位に立てる。しかも、何百もの長ったらしい方程式やコンピュータコード抜きで。数学は、もっとも基礎的な意味におけるパターンである。みなさんは、この世界を見るたびに、自分が気づいたパターンに基づいて独自のモデルを作っている。フラクタル模様になった木の枝になんらかの特徴を見いだしたとき、雪の結晶のなかに多種多様なシンメトリーを見つけたとき、みなさんは数学を見ている。音楽に合わせて足踏みをしているとき、シャワーを浴びながら自分が口ずさんでいる歌を耳にするとき、みなさんは数学を聞いている。練習用のネットに向かってクリケットのボールを投げたり、放物線を描いて飛んでくるクリケットのボールをキャッチするとき、みなさんは数学をしているのである。自分を取り巻く環境に基づいてひとまず作りあげたモデルも、何か新しい経験があったり新たに見聞きしたものがあれば、そのたびに磨きをかけられて構造が変わり、さらに細かく入り組んだものになっていく。自分たちのまわりの世界を支配する法則を理解したければ、複雑な現実を捉えるための数学モデルを作るのがいちばんなのだ。[書き手]キット・イェーツ(Kit Yates)
英バース大学数理科学科上級講師であり同大数理生物学センターの共同ディレクター。2011年にオクスフォード大学で数学の博士号を取得。数学を使った彼の研究は胚形成からイナゴの群れ、睡眠病や卵殻の模様の形成にまでおよび、数学が現実世界のあらゆる種類の現象を説明できることを示している。とくに生物におけるランダム性の役割に関心を持っている。