初期から晩年までの作品を収録し、バージャーの幅広い批評の地平を見渡せる決定版である『批評の「風景」 ジョン・バージャー選集』より、 「もはや肖像画は存在しない」 の一部を抜粋してお送りします。
肖像画は手製の靴のように当人に合わなければならないが、その靴の種類は問題にならない
今後はもう、重要な肖像画が描かれることはないという気がする。つまり、絵画としての肖像画である。特定の個人の特徴を記憶しておくための記念品としては、さまざまな媒体によるものが考えられる。こうした記念品はいずれ、現在ナショナル・ポートレート・ギャラリーに展示されている肖像画とはまったく別のものになるだろう。肖像画の消滅を嘆く必要はない。かつて肖像画の制作に利用された才能を、何かほかの方法で、もっと切迫した現代的役割を果たすために利用すればいい。それでも、肖像画がなぜ時代遅れになったのかを考察してみる価値はある。それが、現代の歴史的状況をより明確に理解するヒントになるかもしれない。
肖像画の衰退が始まった時期は、おおよそ写真が登場した時期と一致する。つまり、上記の問い(この問いはすでに一九世紀末ごろからあった)に対する最古の答えは、写真家が肖像画家の地位を奪ったから、ということになる。写真は肖像画より正確で、時間も費用もかからない。それにより社会全体が、自分の肖像を手に入れられるようになった。それまで肖像を所有するのは、ごく少数のエリートの特権だった。
こうした主張が持つ明確な論理に対抗するため、画家やその庇護者は、描かれた肖像画が比類のないものであることを証明しようと、そこにさまざまな神秘的・形而上学的性質を付与した。機械(カメラ)ではなく人間だけが、モデルの魂を解釈できる。芸術家はモデルの運命を表現するが、カメラは光と影を表現するに過ぎない。芸術家は判断するが、写真家は記録するだけだ……。
こうした言い分は、二つの点で間違っている。第一に、写真家にも解釈する役割があることを否定している。この役割はきわめて重要である。第二に、描かれた肖像画には心理的洞察があると主張しているが、九九パーセントの作品にそんなものは一切ない。肖像画を一つのジャンルとして考える場合、ごく一部の並外れた絵画だけを考慮するのではなく、地方の美術館や役場に掲示されたりしている、地元の貴族階級や要人を描いた無数の肖像画も考慮しなければいけない。それらを含めて見ると、ルネサンス期の平均的な肖像画でさえ(かなりの存在感を示してはいるが)、心理的な内容をほとんど備えていない。古代のローマやエジプトの肖像を見て驚くこともあるが、それは、その洞察が優れているからではなく、人間の顔がほとんど変わっていない事実をきわめて鮮明に伝えているからだ。肖像画家は魂を明らかにするという主張は、つくり話に過ぎない。ベラスケスが顔を描く方法と尻を描く方法との間に、質的な相違があるだろうか? 真に心理的洞察を表現している肖像画など、わずかしかない(ラファエロやレンブラント、ダヴィッド、ゴヤの一部の作品など)。これらの作品は、肖像画家という職業的役割のなかには収まりきれない過剰な個人的関心が、画家の側にあったことを示唆しており、自画像と同じような力強さを備えている。それは実際のところ、自己発見の作品なのである。
ここで、以下のような仮定的な問いについて考えてみてほしい。あなたは一九世紀後半のある人物に関心を抱いているが、その人の顔を見たことがないと仮定しよう。その場合あなたは、この人を描いた一枚の絵画を見たいと思うだろうか、それともこの人を写した一枚の写真を見たいと思うだろうか? だがこの問いは、こう投げかけた時点ですでに、絵画にきわめて有利である。理にかなった問いかけをしたければ、次のように問うべきだ。あなたは一枚の絵画を見たいと思うだろうか、それとも複数の写真を収めたアルバムを見たいと思うだろうか、と。
写真が発明されるまでは、描かれた肖像画(あるいは彫刻の肖像)が、人の外観を記録・表現する唯一の手段だった。写真は、絵画からその役割を奪うと同時に、そこに含まれるべき外観の情報量に関する基準を引き上げた。
とはいえ、写真はあらゆる点で肖像画より優れていると言いたいわけではない。写真は肖像画より情報量が多く、心理的な表現にも優れており、概して正確ではあるが、緊密な統一感に欠ける。芸術作品の統一感は、媒体の制約から生まれる。この制約のなかで、あらゆる要素を適切な場所に配置するには、すべての要素を変換しなければならない。写真では、この変換の大半が機械的に行われる。絵画では、それぞれの変換が、主に画家の意識的判断を通じて行われる。そのため絵画全体に、写真よりもはるかに高度な意図が充満している。つまり、絵画の全体的効果(真実性とは異なる)は、写真の全体的効果ほど気まぐれなものではない。そこに構築されたものは、かなりの程度社会化されている。なぜなら、人間の無数の判断に依存しているからだ。写真は、モデルの外観や特徴を正確に表現しているかもしれないが、説得力に欠け、(言葉の厳密な意味で)決定的でないような印象を与える。たとえば、肖像を作成する者に、相手におもねる意図や相手を理想化する意図があった場合、写真よりも絵画を利用したほうが、はるかに説得力のあるものができる。
この事実から、最盛期における肖像画の実際の機能が明らかになる。ラファエロやレンブラント、ダヴィッド、ゴヤなど、肖像「専門」ではない画家によるわずかばかりの並外れた肖像画だけを見ていては、忘れてしまう可能性が高い機能である。肖像画の機能とは、モデルの社会的役割を受け入れ、それを理想化することにあった。モデルを「個人」としてではなく、一人の君主、主教、地主、商人などとして表現するのである。それぞれの役割には一般に認められた特質があり、一般に認められた相違がある(君主や教皇は、単なる従者や廷臣に比べるとはるかに独特である)。この役割が、ポーズや身ぶり、衣服、背景により強調された。モデルも肖像画家もこうした部分の描写にはあまりこだわりを見せなかったが、それは、時間を節約するためだけではない。それらの部分は、一般に認められたある社会的固定観念の属性と考えられ、そういうものとして読み取られるべきものだったからでもある。
平凡な画家は固定観念の域をあまり超えることはなかった。卓越した肖像画家(メムリンク、クラナッハ、ティツィアーノ、ルーベンス、ヴァン・ダイク、ベラスケス、ハルス、フィリップ・ド・シャンパーニュ)は個人を描きはしたが、その人物の特徴や表情は、当人の社会的役割に照らしてのみ理解・判断できるものだった。肖像画は手製の靴のように当人にぴったり合わなければならないが、その靴の種類が問題になることはなかったのだ。
肖像画を描かせることで得られる満足感は、その人物の立場が認識・確認される満足感にほかならず、 「自分の真の姿」を認識してもらいたいという現代の寂しげな欲求とは何の関係もなかった。
[書き手]ジョン・バージャー(John Berger)
1926年、ロンドン生まれ。美術批評家、脚本家、小説家、ドキュメンタリー作家。 『見るということ』『イメージ―視覚とメディア』(いずれもちくま学芸文庫)で美術批 評家として知られるほか、ノンフィクション作品もあり、『G.』(新潮社)でブッカー賞を受賞。2017年没。