書評
『孤島』(筑摩書房)
大学に入って間もない頃、ジャン・グルニエの『孤島』を買った。いまはなき竹内書店新社から一九七九年に出た改訂版第一刷である。フランス文学に興味を持ちはじめた大方の学生とおなじく、グルニエの名は、アルベール・カミュの師として認知していた。カミュの作品では、『異邦人』よりも『シーシュポスの神話』や『太陽の讃歌』『反抗の論理』のタイトルで訳されていた二冊の「手帖」(いずれも新潮文庫)の方に親しみを感じていたせいか、不条理の源泉に、哲学と文芸のあいだを縫うグルニエの散文集を置くのは、一読、いかにも自然に思われた。
両者には、人間の存在の、幸福と不幸の浸透圧を語る呼吸において、きわめて近しい響きがある。一方で、地中海の光の底に触れる透明なカミュの文章に較べると、グルニエのそれにはもっとごつごつした砂礫の即物性があり、その礫の隙間に濃い霧が入り込んで、不思議な湿り気がまとわりついていた。要するに、二十歳前の私は、師の文章の、井上究一郎の訳文を通じて伝わってくる厳密さと曖昧さの調合が生み出す、ぶっきらぼうな虚無の感覚に魅せられたのである。
それから一九六八年に出た初版を入手し、一九九一年にはJ・グルニエからジャン・グルニエと表記が変わった筑摩叢書版を、昨年はこの版に依拠するちくま学芸文庫も買っている。私にとってグルニエの原風景は、粟津潔の装丁によるベージュの表紙カバーと、やや厚めの本文用紙に活版活字で刻まれた四二字詰め一四行立ての七九年版で、他の版ではてのひらが覚えている言葉の感触にずれが生じてしまうのだが、訳文は最新の文庫版を参照するべきだろう。
孤独よりも秘密の、埋もれた生活をよしとし、「人生の余白に生きるべく運命づけられていた」(文庫版)グルニエの思想は、『孤島』の原題である「島々」という複数形によく表されている。群島のように散った「私」と日々の出来事の積み重ねのさなかで「千分の一秒のあいだ放心する」ことが、人生における特権的な瞬間の、幸福な意味を明らかにしてくれるのだ。原書初版の刊行は一九三三年。二十歳のカミュはアルジェリアでそれを読み、作家となって五九年の改訂版に美しい序文を寄せた。一冊の書物が読み手のなかで育つには、そのくらいの時間がかかる。自身が『孤島』の一員であることを、カミュは師に捧げた文章を通じて、より深く理解したにちがいない。
両者には、人間の存在の、幸福と不幸の浸透圧を語る呼吸において、きわめて近しい響きがある。一方で、地中海の光の底に触れる透明なカミュの文章に較べると、グルニエのそれにはもっとごつごつした砂礫の即物性があり、その礫の隙間に濃い霧が入り込んで、不思議な湿り気がまとわりついていた。要するに、二十歳前の私は、師の文章の、井上究一郎の訳文を通じて伝わってくる厳密さと曖昧さの調合が生み出す、ぶっきらぼうな虚無の感覚に魅せられたのである。
それから一九六八年に出た初版を入手し、一九九一年にはJ・グルニエからジャン・グルニエと表記が変わった筑摩叢書版を、昨年はこの版に依拠するちくま学芸文庫も買っている。私にとってグルニエの原風景は、粟津潔の装丁によるベージュの表紙カバーと、やや厚めの本文用紙に活版活字で刻まれた四二字詰め一四行立ての七九年版で、他の版ではてのひらが覚えている言葉の感触にずれが生じてしまうのだが、訳文は最新の文庫版を参照するべきだろう。
孤独よりも秘密の、埋もれた生活をよしとし、「人生の余白に生きるべく運命づけられていた」(文庫版)グルニエの思想は、『孤島』の原題である「島々」という複数形によく表されている。群島のように散った「私」と日々の出来事の積み重ねのさなかで「千分の一秒のあいだ放心する」ことが、人生における特権的な瞬間の、幸福な意味を明らかにしてくれるのだ。原書初版の刊行は一九三三年。二十歳のカミュはアルジェリアでそれを読み、作家となって五九年の改訂版に美しい序文を寄せた。一冊の書物が読み手のなかで育つには、そのくらいの時間がかかる。自身が『孤島』の一員であることを、カミュは師に捧げた文章を通じて、より深く理解したにちがいない。