印象的なセリフはもちろんのこと、脚本の妙でもミステリファンの心をとらえて離さないドラマ「刑事コロンボ」。主演俳優ピーター・フォークについてのみならず、監督、脚本家など制作陣の証言をもとに、ドラマの舞台裏まで網羅した書籍『刑事コロンボとピーター・フォーク その誕生から終幕まで』より、序を公開します。
徹底的なリサーチにより事実を追う
素晴らしいミステリというのは、本質的に、解決に必要な手がかりをすべて与えながらも、見る者を途方に暮れさせる入り組んだ謎解きである。私が一番好きなミステリドラマは『刑事コロンボ』だ。皮肉なことに、多くの人は『刑事コロンボ』をミステリだと思わない。なぜなら伝統的な解決――殺人者の正体――は通常、最初のコマーシャルの前に明かされるからだ。私に言わせれば、『刑事コロンボ』のほうが優れている。視聴者を有利なスタートに立たせてくれるからだ。エルキュール・ポワロやジェシカ・フレッチャーは、一見、偽の手がかりを追うのに多大な時間を費やしながら、その思考過程はたいてい、最後に明かされるまで視聴者には秘密にされる。そしてようやく、探偵役はそれぞれの手がかりを特定し、それについて説明するのだ。かたや『刑事コロンボ』ではずっと明かされている。私たちはカンニングペーパーを持ったクレイマー刑事で、コロンボと一緒に行動しながらも、一歩遅れている。私たちはその巧妙さと――ピーター・フォークの人を魅了する人物描写のおかげで――解決に至る面白さに舌を巻く。彼は腕まくりをし、スローモーションで、熟練の手管を見せる魔術師なのだ。
私は常々、ドラマの制作にどんな要素が注ぎ込まれているか考えてきた。この連続ドラマに関する偉大な本としては、1989年初版のマーク・ダウィッドジアク『The Columbo Phile』[邦訳『刑事コロンボ レインコートの中のすべて』(KADOKAWA)]が長年にわたり知られてきた。しかし私は、さらに深く、さらに網羅した本が出ることを望んでいた。現にダウィッドジアクは私に、自分の本が〝コロンボ学〟の終わりでなく始まりとして〝継続的な研究〟を促すことを望んでいると打ち明けた。
2006年、フォークは回顧録『Just One More Thing』[邦訳『ピーター・フォーク自伝 「刑事コロンボ」の素顔』(東邦出版)]を出版した。私は真っ先に手に入れた。彼が演じた最も有名なキャラクターにまつわる、さらなる秘密を知りたくてたまらなかったのだ。フォークの名誉のために言うが、この本は素晴らしかった。読んでいると、著者と同じ部屋にいて、本人の声でその人生を聞いている気になる。彼は話を面白くするのが好きで、正確さにはこだわらなかった。フォークにとっては、一番愉快な話になりそうなことが事実なのだ。この本には、誇張だと実証できる箇所が少なからずある。例えば『氷人来たる』は毎晩7時間上演されていたというが、これは真っ赤な噓だ。レイカーズの試合でジョン・カサヴェテスと初めて会ったという話もそうだ。彼らはその何年も前に、映画で共演している。
後日、フォークのインタビューを脚本や撮影所の記録と照らし合わせ始めた私は、彼が常に事実をおろそかにしていることに気づいた。このドラマの歴史を正確に年代順に記録することになったら、一番の難題はフォークの話から事実とフィクションを見分けることだろうと思った。
幸い、この冒険の扇動者や目撃者の多くが、親切に思い出を語ってくれた。さらに有益だったのは、十数人以上の歴史的人物の私文書に触れることができたことだ。これらはじかに目にしたことの記録であり、先入観に曇らされることもなければ、年月によって色あせることもない。中でも役に立ったのは、1975年から1977年にかけてNBCでシリーズの連絡役を務めていたボブ・メッツラーの業務日誌だ。メッツラーは制作過程のすべてを文書に記録しており、その評価の誠実さと、出来事や会話の記録の正確さは信頼に値する。メッツラーは何かを売り込もうとも、自分をよく見せようともしていない。彼の記録は、自分が読むためだけのものだった。
きわめて守りの堅いふたりの天才の作品が、抜群の創造性を持ち、抗いがたい愛嬌があり、手に負えないほど気まぐれで、演じるために生まれてきたひとりの俳優に選ばれたときに何が起こったか、私の解説をジェットコースターに乗るように楽しんでいただければ幸いだ。これは真実こそが最高の物語になるという、ひとつの冒険である。
[書き手]デイヴィッド・ケーニッヒ(作家、編集者)