だれもが使ったことのある計算道具、電卓
本書はEmpire of the Sum : The rise and reign of the pocket calculatorの邦訳であり、原題を直訳すると『計算の帝国:ポケット計算機の台頭と支配』となる。もっと具体的に言うと、太古の昔から現代まで人類が使ってきた計算道具の変遷をたどる本である。現在のところ、究極の計算機は膨大な計算を瞬時に実行できるスーパーコンピュータだろうが、本書が注目するのは「ポケットに入る計算機」であり、それが誕生するまでの過程で生まれたさまざまな道具や機械の栄枯盛衰の物語、それにかかわった人々、さらには正真正銘のポケット計算機であるポケット電卓の繁栄と「その後」について語る。持ち運びできて必要なときにすぐに計算を助けてくれるもの、そんなものを人類は有史以前から求め、作り出してきた。現代人にとって(ひょっとすると若い人は違うのかもしれないが)、まず思い浮かぶのが電卓である。ひと昔前ならそろばんだっただろう。だが、かつてはどこにでもあったそろばんも最近では見かけることがなくなったし、電卓でさえ同じ運命をたどっているようだ。計算帝国の支配者の興亡は激しいのである。
本書の翻訳のお話をいただいたとき、「数学の専門家でも計算機マニアでもないのに、私にできるのだろうか」と思いながら原書を眺めているうち、オリベッティのプログラマ101の写真が目に入った。そして、「そうそう、こんなのがあった!」と何十年も前のことを思いだした。就職したばかりの頃、先輩が「このカードに書き込んだプログラムで統計分析ができるんだぞ」とちょっと得意そうに説明してくれた。そういえば、学校の授業で卓上計算機のプログラムを作る演習をしたことがある。ディスプレイはなく、計算結果はロール紙に印刷される。パソコンが普及する前の時代の話である。職場にはいろいろ古いものがあって、手回し式計算機を引っ張り出してきて使って見せてくれた人もいた。
そんなことを思い出し、計算機の歴史が身近なものに思えてきて、本書の翻訳を引き受ける決心がついた。そして引き受けたはいいが、扱っている時間的地理的範囲の広さと資料の多さゆえに、悪戦苦闘することになる。本書では、石器時代、いや、ホモサピエンス以前のヒト科動物から現代まで、西欧だけでなく全世界に話が及ぶ。たとえば第2章(アバカスの章)では、地中海周辺の古代文明から始めて「中国のアバカス」として算盤(中国のそろばん)について説明し、やはり中国にあった算木については現存する数少ない資料のひとつである日本の算木数字の表を紹介している。そしてもっと時代が新しくなると、いわゆる電卓戦争における各企業(おもにアメリカと日本の企業)の戦略についても詳しく分析する。
著者は、計算と計算機の仕組みを理解するために必要な数学や工学技術の基礎知識のほか、何が何に、あるいは誰が誰にどう影響を与えたかという複雑な因果関係を分かりやすく説明し、開発にかかわった人々の考えや功績を時代背景とともに語り、彼らの人物像を描き出す。たとえば第2章に、1949年に行われた日本のそろばんとアメリカの電動式計算機の対決で、そろばんの名手、松崎喜義が勝利した話が出てくる。そして第7章に、その新聞記事を読んだ樫尾俊雄が、敗北した機械の方に興味を持ち、計算機の開発を決意したことが書かれている。彼はソレノイド式計算機の開発に取り組み、もう少しで完成というところで、量産に向かないという理由で突然リレー式にすると言い出し、幾多の失敗にもめげず製品化にこぎつける。これがカシオの計算機事業の礎となるのだが、リレー式もすぐに時代遅れになる。こうしたエピソードが満載の本書は、著者のウィットに富んだ語り口と相まって、テクノロジーの進歩に関心のある人はもちろん、人間ドラマの方に目が向く人にも楽しめるだろう。
計算尺、100玉そろばん、関数電卓を覚えていますか?
本書には、パスカルやエジソンといった有名な学者や発明家のほか、さまざまな技術者や起業家、そして名もなき人々が登場する。中でも印象に残ったのが「ヒューマン・コンピュータ」である。原書ではカルキュレータとコンピュータがはっきり区別されており、訳す際には、カルキュレータは「計算機」とし、コンピュータはそのまま「コンピュータ」とした。コンピュータという言葉はもともとは「計算する人」を意味していた。翻訳にあたっては、巻末の参考文献にもあげられているシェタリー著『ドリーム:NASAを支えた名もなき計算手たち』にならって、職業としての「人間コンピュータ」には「計算手」という訳語をあてた。第6章にあるように、19世紀頃から、男性の科学者やエンジニアは繰り返しの多い計算の作業を計算手にさせた。計算手は多くが女性で、任された仕事は現在なら(機械の)コンピュータにさせるような作業だった。ここで、コンピュータとカルキュレータの違いは何かという疑問がわいてくるが、著者はコンピュータにおけるソフトウェアの重要性を強調している。計算手が計算機を使っていたときはソフトウェアは人間の側にあったのだが、コンピュータの時代になるとそれも機械の側に組み込まれたのである。ところで、かつて携帯できる計算道具の代表格だった計算尺は、17世紀にヨーロッパで発明・改良されて20世紀になっても使われたが、もっと便利な計算機が普及すると姿を消してしまった。このため、計算尺の使い方を初歩から具体的に説明している日本語資料が意外となく、困ってしまった。だが、「もしかして」と思って家の中を探してみると、古い学習机の引き出しから「計算尺 生徒用」なるものが出てきた。学生のときに買ったのだろうが、まったく記憶にない。ともかく、部品の名称や計算の手順などを訳すうえで、その説明書がたいへん役に立った。
というわけで、意外にも自分が移り変わる計算道具とともに生きてきたことに気づかされた。指を折って数えていた幼児(じつは今でも、つい指を折って数えてしまう)が、いわゆる「100玉そろばん」(アバカスとも呼ばれる知育玩具)で数の概念を学び、学校で筆算を習うと同時にそろばん塾に通い、そのうち電卓を使うようになり、社会人になってからプログラマブル関数電卓を買った。今ではたいていのことをパソコンでするが、相変わらずカードサイズのソーラー電卓が手放せない。これが私の計算の歴史だ。これに、記憶の定かでない計算尺と卓上計算機も加えると、本書にある「手」、「アバカス」、「ペンとインクと紙」、「計算尺」、「機械式~電子式の計算機」、そして「ポケット電卓」、さらには「表計算ソフト」という流れとよく一致する。本書の内容自体、とても興味深いことばかりだが、皆さんも自身の計算の歴史を人類の計算の歴史と比べてみると、いっそう面白く読めるかもしれない。
[書き手]上原ゆうこ(翻訳家)