書評
『茨木のり子全詩集 新版』(岩波書店)
やわらかい言葉のふくらはぎに触れる
詩との出会いの場はいくつもある。国語教科書や参考書、アンソロジー、単体の詩集、さらにひとりの詩人の全詩集。おなじ一篇の詩でも、場所や読んだ時期によって味わいも異なる。茨木のり子の詩作品は右のすべての媒体において接近遭遇が可能だが、もっとも手に取りにくいのは、大部になる全詩集だろう。しかしほぼ編年で詩業とそれに関連する散文等を収め、年譜も添えたこのかたちでしかもたらされない得心がある。本書は十五年前の花神社版『茨木のり子全詩集』に、草稿ノートから発見された二篇の未発表詩と九篇の訳詩を加えた新版である。一九二六年に生まれ、十九歳で敗戦を迎えた詩人は、四六年夏、読売新聞社主催の第一回「戯曲」募集に応募して佳作に選ばれた。舞台の空間、演者の身体と声が、彼女の創作の出発点に刷り込まれていたこと、その台詞(せりふ)における<詩>の欠如を補い、自身の言葉を鍛えるために詩作が開始されたことは、あらためて確認しておいていいだろう。
彼女の詩の、小さな部屋から外に放たれていくような、力強いけれど「少しばかり古風」(木原孝一)な声には、戯曲や朗読の養分がすでに取り込まれている。「わたしが一番きれいだったとき」「自分の感受性くらい」「倚(よ)りかからず」といった、ひろく愛誦(あいしょう)されている詩篇を支えているのも、前後左右の空間と観客の存在を意識して声を発する、ひとりではない舞台上の感覚に近いものだ。
全詩を順に追っているうち、やわらかい言葉のふくらはぎに触れているような錯覚にとらわれた。瞬発力とも膂力(りょりょく)とも関係のない詩人の膝下の使いこなしは、私たちが現在浸っている濁りの浅瀬で身を持(じ)すための、大きな助けになるだろう。ふたつの異なる魂が出会い、相互理解に至る一歩手前の状態を、「りゅうりぇんれんの物語」のなかで詩人はこう記す。
「ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが/ぱったり出会う/その意味も知らずに/その深さをも知らずに/満足な会話すら交せずに/もどかしさをただ酸漿のように鳴らして/一ツの村の魂と もう一ツの村の魂とが/ぱったり出会う/名もない川べりで」
やわらかいふくらはぎがなければ、「もどかしさをただ酸漿のように鳴らして」歩くことはできない。第一詩集を『対話』と題した詩人は、この「もどかしさ」を消さずに言葉を交わしあう術(すべ)を心得ていた。身体の軸にぶれがないから、かたちの崩れたものを崩れたまま運び、「内部からいつもくさつてくる桃、平和」という一行を、いつまでも腐らずに胃の腑(ふ)に留(とど)めることができるのだ。
不確かなものをつかむ嗅覚を、茨木のり子は失わない。「行方不明の時間」や海辺の松林で発見された縊死(いし)者の残像を、たいせつに抱えている。死後に刊行された、亡き夫との日々を描く『歳月』にもそれがある。「なれる」のではなく「親しさ」を深めること。なれてしまったら「もどかしさ」は消えてしまうからである。
追補された翻訳詩篇のうち、尹東柱(ユンドンジュ)の「こほろぎと私と」が胸を打つ。「誰にも知らせないで/わたしたち二人だけで解りあおうと約束した」彼らの、「クィトゥル クィトゥル」という声は、訳者自身の世界と響きあって、二人ではなく三人の酸漿(ほおずき)を鳴らしている。
ALL REVIEWSをフォローする



































