虚実の間、捉える言葉を探る
言葉で表された詩が「わかる・わからない」という判断と対面させられる場合、それは主に、意味や文脈においてのことだ。「わからない」と感じるとき、判断の足場は、たとえば制度として習う日本語が持つ「仮定された正しさ」や、社会が営まれる上で不可欠な「散文」にある。そして往々にして「わかる」印象を与える詩は、たとえ行分けされた詩でも、書き方として「散文」寄りの姿を持つ。飛躍があっても文脈が辿れるなら安堵につながる。それが「散文」の行き方だ。吉増剛造の詩は「散文」への対抗を極限まで推し進める場に生成する。ボーカル(朗読)や映像など、さまざまな面を見せるその詩は、要素を語ってもまるで全体像には届かない、多層的で流動的なものだ。先頃、東京国立近代美術館で開催された展覧会は驚異的だった。
読むだけでも、見るだけでも、聴くだけでもない。その詩と接する唯一の方法は、こちらの、生きる時間をつかのま重ねることだ。という説明(散文)などは、目の大きな網と同じ。それでは捕まえられないものが、形を変えながら絶え間なく通過する。いろいろな方向から。
震災以後に書かれた『怪物君』は、吉本隆明の詩を模写したり表記を変更したりする方法が試みられる箇所や、メモやドローイング(インクや木炭を使用)が重なる部分を含みこんで成る詩集。読点の連打、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットにハングルが加わり、紙の空白が強調される。声が、言葉になろうとして胸を掻きむしるような瞬間。ヒトはいつからか言葉を使うようになったのだと、忘れていたのではないけれど思い出す瞬間の刻印だ。
『心に刺青をするように』は「機」誌の全八十回の連載をまとめた作品。国内外のさまざまな土地や人や書物が、独特の文体の中で、独自の出会いを紡いでいく。言葉に、多重露光の写真が配され、線状ではない時間・空間の把握が暗示される。
柳田国男にちなんで、宝貝を携える著者。「耳を澄ますと貝の音楽が聞こえてくる。柳田さんの心中の音までも、……」。ベケットやキーツやイバン・イリイチやダ・ヴィンチの肖像に宝貝を置いて、写真に撮る。どこかのどかなカピバラの写真もある。最終回に「虚実の皮膜の、皮膜それ自体の層の深さ、淵の深さに、とうとうそれに、気がついた」という言葉がある。その感じ方こそ、まさに吉増剛造の詩だと思う。「わかる・わからない」の次元を超えて、感じ取るとき、ヒトは詩そのものである瞬間がある。文字に聴き、声を見る。言葉との原初的な関係の探求がここにある。