書評
『フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学』(日経ナショナル ジオグラフィック)
聴覚衰え知らず、声に個性、よくしゃべる
著者のアッカーマンは、米国の優れた科学ジャーナリストである。本書もフクロウに関する最新の科学的知見を単に紹介するだけではなく、プロフェッショナル、アマチュアを問わず、研究に関わった研究者たちへのインタビューが丁寧かつ詳細にわたる。そこもいわば「科学的」である。フクロウはちょっと変わった興味深い鳥で、著者はいう。「フクロウは私たちの人生を変える。彼らの生態や行動を理解しようとする試みは、私たちの世界の見方を広げ、自然に対する驚きや関心をいっそう高めてくれる」。このことはじつはフクロウに限らない。私はそう思う。
自然の生きものに関心を持つと、それがなんであれ、人生にこういう豊かな結果をもたらすことが多い。現代の都市生活では、広い意味の人事、つまり人間のことが関心の対象になりやすい。それは必ずしも良い結果を生まない。
たとえば特定の個人にあまり強い関心を抱くと、ストーカー現象になってしまう。これが野生のフクロウを探すのであれば、追求のしつこさはむしろ研究上の利点になりうる。
それにしてもフクロウというのは面白い生きものである。鳥としてはかなり変わりもので、暗いところが苦手ではなく、夕方から夜間に狩りをする。姿勢は直立し、大きく丸い頭で、けた外れに大きくて正面を向く目がある。前から見たら大きいから、眼球が全体に大きいかというと、むしろ筒状であることが解剖学的に知られている。フクロウにとって重要な感覚は、視覚ではなく聴覚であり、あの大きな平板な顔は顔盤と呼ばれ「顔盤そのものが一種の開口、つまり音の『目』であり、広く開いて多くの音を拾っては耳に向けて反射するのだ」。
読者の皆さんはフクロウの顔について、これまでそう思っておられたであろうか。暗いところにひっそり隠れているフクロウの顔は見られるためではなく、音を聞くためにああなったのである。
「静かで、用心深く、人目につかず、捉えがたい。カムフラージュに長(た)けていて――草のような筋模様、まだら模様、斑点、樹皮のような縞(しま)模様、雪のような白さによって――捕食者または獲物の目をくらます。彼らは周囲と同じような外見で環境に溶け込む」。それがフクロウなのである。
「フクロウの蝸牛(かぎゅう)(という器官)は他種の鳥の3、4倍以上と大きい。このため、メンフクロウ類は非常に鋭敏な聴覚を持つ」「フクロウの聴覚にはもうひとつ哺乳類にはない並外れた点があって、この点は他種の鳥でも同じだ。老いるということがない」。つまり蝸牛内の有毛(ゆうもう)細胞が再生できるのである。
評者自身は米寿なので、かなり耳が聞こえなくなっているはずだが、まだ自覚してはいない。目は非常に悪くなり、右目の視力がとくに悪いので、両眼視ができていない。双眼の実体顕微鏡でいつも虫を見ているが、双眼の意味はない。フクロウの目が両眼ともに前を向いているのは獲物の位置を特定する際の立体視に有利だからだと思われる。私は立体視がほとんどできていない。年齢とともにさまざまな不自由が増えるが、これは当然仕方がないとして素直に受容するしかない。
全九章のうち、第六章は「去るべきか、去らざるべきか」と題され、「ねぐらと渡り」という副題がつけられている。私にはここがいちばん興味深い部分であった。フクロウには多くの種があって、全世界に広がっているから、ねぐらや渡りについて、一般論はできない。それでも本書のこの部分で取り上げられているセルビアの小さな町キキンダのトラフズクの話題には驚いた。写真も載せられているから、読者も納得するであろう。この街には欧州各地からひとりでに多数のトラフズクが集まってしまったのである。
年齢とともに、具体的な生きものに対する関心が強まる。今机の上にある本は『となりのクリハラリス』『記憶するチューリップ、譲りあうヒマワリ』である。抽象的な理屈が嫌いになって、考えが感覚寄りになってくる。抽象的な部分とは、AIで処理できる部分であり、感覚寄りとは私自身が対象から直接に感じることなので、AIが受け付けない部分である。年寄りが頑固になるのは、ここだなあと感じる。感覚は一義的に具体的に決まってしまうので、融通が利かない。国会の論戦などは私には全くの抽象に聞こえるから、聞く気にもならない。
フクロウの鳴き声には、個性もあり、種によってはよくしゃべるので、様々な情報を伝えるらしい。これをAIを介して理解できる時代が来るかもしれない。楽しみなような、聞きたくないような、奇妙な気分に襲われる。いまのところ、年寄りには現在までの状況で十分だという気がしないでもない。
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