愛すべき奇人が生んだ未踏の世界
図書の分類にふつうそんな項目はないが、本が好きな人間ならきっと知っているはずの、「本の本」という隠れたジャンルがある。一冊の本をめぐる小説、古書の話、蒐集家の物語、書店をめぐる物語、さらには書評集などなど、このジャンルに属する本はいろいろあって、愛書家の大好物になる。ここで紹介する『愛書狂の本棚』は、そういった「本の本」の中でもとびきりの一冊であり、それこそ愛書狂なら本棚には必ず置いておきたい書物だ。それというのも、この大型の書物には、古今東西の奇書の中でも珍中の珍と呼ぶべき書物たちが、豊富で色あざやかな図版とともに数多く集められていて、この一冊を手元に置いておくだけでも、小さな本棚が広大な図書館に変貌するような気がしてくるからである。無数にある書物という大海を背景にした本書の魅力を、短い書評の中で言い表すことなどとうていできそうにないが、各章の章題を列挙してみれば、その一端が伝わるかもしれない。「『本』ではない本」、「血肉の書」、「暗号の書」、「偽りの書」、「驚異の収集本」、「神秘の書」、「宗教にまつわる奇書」、「科学の奇書」、「並外れたスケールの本」、「変わった書名」。こうした奇書の仮の分類を概観してみるだけでも、奇書というものの範囲の広さ、ひいては書物文化の果てしない広がりをぼんやりと想像することができるだろう。
本書を気のおもむくままにながめていると、本というものの存在についてのさまざまな瞑想が自然に浮かんでくる。まず、ここで著者のエドワード・ブルック=ヒッチングが集めている「本」が、「『本』ではない本」という章の副題に書かれているように、「紙でできているとは限らない」こと。わたしたちは「字が書かれた紙を綴じたもの」だと考えがちだが、それは字でなくてもいいし、紙でなくてもいいし、綴じたものでなくてもいい。本の起源をさかのぼれば、文字が刻まれた中国の甲骨は「骨の本」だと見なすことができるし、魚の皮に書かれたコーランもあるし、法隆寺に現存する経典「百万塔陀羅尼(だらに)」は日本最古の木版印刷物である。こうしたものが本だとは思えない人がいたとすれば、いわゆる「電子ブック」の恩恵を受けている現在の書物文化のあり方に思いをはせてみるべきだろう。本は時代とともにかたちを変える、自由なものだ。
そして、本とは人そのものであること。本書の原題である「ザ・マッドマンズ・ライブラリー」とは、たしかに「愛書狂の本棚」とも読めるが、それは愛書狂を自称する著者の本棚を紹介するという意味だけではない(本書に収められた奇書の数々が、すべて著者の蔵書だというわけではない)。それは「奇人大集合」の謂でもある。奇書の背後には、奇矯な人間がいる。従って、奇書を集めた本書はそのまま、奇矯な人々を集めた逸話集になる。それがおもしろくないはずがないではないか。
わたしが本書でいちばん好きな逸話は、反ナチ活動家が投獄されたときに、トイレットペーパーに金具で穴を開けて日記を綴り、看守に見つからないようにそれを丸めて通気口の中に押し込んでおいたという話だ。後にこの話を本人の口から聞いた人間が、監獄におもむいて通気口をこじ開け、トイレットペーパーを発見した。それをもとにして出版された戦時日記は、北欧でベストセラーになったという。一冊の本ができあがるまでには、それこそ小説の題材になりそうなとんでもない物語がひそんでいる。
いまのわたしたちの目から見れば事実誤認に満ちた書物も、充分に奇書の資格を有することになる。たとえば中世の動物寓話集がそれで、プリニウスの有名な『博物誌』にも、「ネズミの糞を頭に塗り付けるとはげ(・・)が治る」と書かれている。こういう記述があちこちで見られるのも、本書のユーモラスなところだが、そうした俗説は、いまのわたしたちがふだん小説のかたちで受容しているフィクションと、はたしてどれくらいの違いがあるのだろうか。
ここに集められている奇書には、古代や中世のものが多いのが目を惹く。そのころ、まだ世界は未踏の地だらけで、人間というものの存在も、自分の身のまわりの事物や現象も、わからないところばかりだった。必然的に、書き手が世界というものを、そして人間というものを理解しようとしたとき、そこには奇怪な空想が生まれ、わたしたちの目から見たときの奇書が成立した。彼らは決して笑うべき存在ではなく、愛すべき奇人たちなのである。
ひるがえって、いまの世界に住むわたしたちはどうだろうか。科学技術の発達によって、世界のあらゆる片隅がウェブでつながり、必要な情報が瞬時に入手できる時代にあっては、世界や人間が謎に満ちたものだという感覚はだんだん希薄になっているのかもしれない。書物もデータ化していくと、奇書が生まれる余地も少なくなっていく。『愛書狂の本棚』を読んでいて感じるのは、そんな一抹の寂しさなのだ。