書評
『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(河出書房新社)
“反フェミニスト”の過激なものいい
著者の名より訳者の名で読むということがある。野中邦子さんなら訳もいいし、原本も面白い、と『ジャズ・クレオパトラ』『ナンシー・キュナード』『ペギー』『オキーフ/スティーグリッツ』と伝記群を読んできて、本書カミーユ・パーリア著『セックス、アート、アメリカン・カルチャー』(河出書房新社)はちょっと毛色の変わった本だ。いまアメリカで一番、「悪名を馳せ」ている人らしい(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995~1996年頃)。六十年代のポップカルチャー育ち、イタリア移民というマイノリティーの屈折とパワー、学者としての二十年の不遇の恨みつらみをぶちまけて、メディアと丁丁発止。向かう敵はお上品ぶったWASP(白人、アングロサクソンのプロテスタントの中産階級)。
いわく、「近ごろのフェミニストはすっかり保守主義に毒され、ヒステリックなモラリズムとお上品ぶったポーズへと逆行している」。カミーユ・パーリアはアンチ・フェミニスト・フェミニストと呼ばれている。自分は「俗悪で陽気な現場主義の戦士」であり続けたいと語る。
いわく、「リベラルと保守派という二項対立はもはや成り立たない。リベラルを批判すると保守派のレッテルを貼られるが、一番保守的なのはかつてのリベラルではないか」。パーリアは自由意志尊重派である。中絶、男色、ポルノ、ドラッグの使用、自殺、すべて個人の自由意志にまかされるべきだという。
大学人批判も厳しい。いわく、わが世代のユニークで大胆な人々は大学院に進まず「その結果、わが国の一流大学には、いまや立身出世に汲々となる凡庸な五十年代タイプが群れをなしている」。教条的マルクス主義者はアメリカで一番のスノッブで、フェミニストの旦那はおおむねへなちょこの本の虫だとバッサリ。うーむ、ここまでいっていいのか。
パーリアが好きなのはマドンナ。女らしくセクシーでエネルギッシュで野心的でユーモラス。エリザベス・テイラーはフェミニズム出現以前の偉大な魔性の女(ファム・ファタル)。これに比べればデビー・レイノルズなんて消毒液くさいブロンド信仰の産物だし、馬づらのメリル・ストリープは急成長したヤッピー世代の理想の大根役者、と小気味よい。飛行家のアメリア・イヤハートやキャサリン・ヘップバーンを独立心にとみ、自分の恨みを人のせいにしなかった女性として称揚する。
本書の圧巻は「デート・レイプ」問題で、パーリアは全米の「フェミニスト」を敵に回した。デートしてセックスする前には男は女にはっきりした同意をとりつけなければいけない、そうでなければその男はレイプ犯である、というのはあまりにも単純なセックス観であるという。
「攻撃性とエロティシズムは分かちがたく絡み合い、女性は言語以前のシグナルを読みとらなくちゃね。デートにいって酔って男の部屋についていったあげく暴行されたと大学の苦情処理委員会に訴えるのは甘いんじゃないの? 被害者意識による責任転嫁よ」
聞いてみるべき意見だと思う。もちろんパーリアは「レイプそのものは犯罪であり、文明社会では許されざる行為だ」という。レイプに泣き寝入りしなくなったこと、セクハラという概念が登場したことによって、上司や同僚による権力をカサに着た“性的いやがらせ”が少なくなったことは喜ばしい。
しかし女性が自己責任を持って生きることを忘れ、何でも「男社会」のせいにし、どうでもいいような発言まで「セクハラだ」と抗議する現状は、女性を本当に幸福にはしないのではなかろうか。パチパチと拍手した。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

毎日夫人(終刊) 1993年~1996年
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