真相は「戦力温存」、体験記を補う事実
町で聞き取りをしていると、あの時は、と学童疎開の話が出る。しかし昭和十九年当時、主に国民学校三―六年の限られた世代の体験であること、飢え、ひいき、いじめなど思い出したくないことが多すぎることもあって、なかなか全容があきらかにならない。いままで、いくつもの回想文集に出あったが、本書は初めて、学童疎開の全体像に迫った力作といえよう。驚くことばかりだ。「疎開」という言葉の出典は「歩兵操典」の中の軍事用語だという。一九四三年にはまだ「民家を取り払う」という意味の耳新しい言葉であった。
政府は当初「我が家は我が手で守れ」と避難を禁止していた。次に防空空地をつくるため、建物疎開(破壊)がすすめられ、家を失った人びとに家族単位の縁故疎開を奨励した。集団疎開の起点とされてきた一九四四年六月三十日の「学童疎開促進要綱」は、最終的形態であることを著者は緻密(ちみつ)に描く。
集団疎開を実現するために政府がもち出したイデオロギーが「桜井の子別れ」。楠木正成(まさしげ)はわが子を将来に備えるように諭して別れ、正行(まさつら)は十年後、戦死した。すなわち集団学童疎開は、子どもの安全を願ってのものではなく「次代の戦力の温存」と「足手まといの排除」だった。温情を示すビスケットと共に皇后が下された歌、「次の世を背負うべき身ぞたくましく正しく伸びよ里にうつりて」にもその意図がうかがわれる。
著者は感傷的な回想からは一切採らない。淡々と公文書でたたみ込んでくる。一日一九三〇キロカロリー必要な六年生男子が九二四キロカロリーしか与えられず、一年で体重が平均一・一キロ減った(平均体重は六年生で二七・八キロ!)。王子第四国民学校の寮ではバターの特配があり、半年に副食がバターのみの日が二十一回あった。疎開先十三県五十八カ所で千五百七十一人の女子の間に淋病(りんびょう)が蔓延(まんえん)した。卒業のため帰京した本所区二葉国民学校の八十人中三分の一は東京大空襲に遭い学校のプールで死んでいた。体験記を補う空恐ろしいような記録である。