書評
『昭和史』(東洋経済新報社)
玉音放送と『最後の授業』
昭和を語ることは、二十世紀を語ることに他ならない。世紀末の変転する内外の状況を見すえながら、さまざまな角度から昭和史を全体として捉える試みが、今後本格化するであろうが、本書はその先がけとしての意味をもつ。昭和と共に生きた著者は、自らの生き様と重ねあわせながら、同時代史としての昭和を描いている。したがって、定評ある経済史家としてのツボを押さえた記述を柱としながら、随所に著者ならではの見解が示される。たとえば二・二六事件にも対応する「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)の一句を「ひとはこの句をたんに叙情と感慨のみと解しがちだが、作者はこのクーデターに対する憤りを一七字にさりげなく秘めていたのではないだろうか」と解説してみせる。また火野葦平の『土と兵隊』を引用し、「この時代の異常な雰囲気をそして、軍部が『銃後』の国民をもひき込みたいと願っていた空気を、率直に伝えている」と述べる。このように文芸作品を評することで、昭和戦前期の特色を浮かび上がらせようとする手法は、まことに鮮やかだ。玉音放送に際して「ドーデの『最後の授業』という短編小説が急に思い出された」との一節などは、名人芸という言葉がピッタリくると言ってよい。
短く歯切れの良い文体と淡々たる筆致の中に、著者自身の成長による目線の高さの上昇を反映して、後半になるほど時代への思いが強く出る結果となった。とはいえ、著者は無論ポイントははずさない。陸軍の教育制度から東条ら指導的軍人の視野の狭さに説き及び、天皇の開戦時と終戦時における役割の違いを対比させ、皮相的な天皇責任論にはくみしない。最後に太平洋戦争の意義を論じて、「日本は東亜の解放者と自らを誇ることは許されない」としながら、「東亜の解放」の実現を帝国主義国間の相克の意図せざる結果と捉え、後世の史家の評価にゆだねた点は、さすがである。
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