書評
『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』(文藝春秋)
奔放な「新世代」から描く昭和史
一時代の歴史を描くのにマイナーな人物に焦点を合わせることで逆にその時代全体を浮かびあがらせるという方法がある。クラカウアーの『天国と地獄―ジャック・オッフェンバックと同時代のパリ』がその典型だが、この搦(から)め手的手法を使って敗戦処理内閣の首相・東久邇宮稔彦王を描いた本書は新しいタイプの昭和史を創り出したと言っていい。久邇宮朝彦王の末男として明治二十年に生まれた稔彦王は皇太子(大正天皇)に砂をかけるなど武勇伝には事欠かなかった。本来なら臣籍降下するはずが明治天皇皇女との結婚で宮家を立てられたのが意に染まなかったらしくフランスに単身留学するや七年も帰国せず、軍務復帰すると今度は脇の甘さから右翼や軍人に囲まれクーデター内閣の首班と目されるに至る。開戦直前、近衛内閣瓦解(がかい)の後に組閣寸前まで行くが木戸内大臣の反対で頓挫する。終戦でついに首相となるもGHQと対立してあっさり内閣を投げ出し、戦後は新興宗教の教祖に祭りあげられるなどスキャンダルでマスコミを賑(にぎ)わした末に、昭和天皇より長生きして百二歳で天寿をまっとうした。
では、こうした経歴のどこに「新しい昭和史」を用意させる要因が含まれていたのか?
稔彦王が最上層階級における「新世代の代表」だったことだと思われる。大正天皇崩御や家族の不幸があっても帰国せず、あげくに臣籍降下を言い出して廷臣たちを困らせた稔彦王の言動はいかにも新世代らしい自由奔放な反応であった。その例として、著者は『倉富勇三郎日記』などの未刊資料の読み込みにより、王がフランス人の愛人を属官・池田亀雄の妻ということにして日本に連れ帰ったらしい事実を明らかにする。結局、この問題は曖昧に葬られるが、フランスで自由を知った稔彦王は昭和に入ると超リベラルな言動で顰蹙(ひんしゅく)を買う一方で真崎甚三郎や末次信正など危険な軍人と無警戒に接触を持ち、満州事変が始まるや、陸軍強硬派と似たような主張を口にしはじめる。「昭和六、七年当時の稔彦王は逸(はや)りに逸っていたといっても過言ではないのである」
稔彦王は自伝で昭和八年の神兵隊事件への関与を否定しているが、著者によるとこれは完全に嘘(うそ)で、私設秘書・安田銕之助の上申書に王の関与を読み取ることができる。神兵隊事件の曖昧決着は稔彦王にまで累が及びそうになったためらしい。このように、王の周辺には怪しい人物が出入りしていたが、その最たる者は小原龍海という僧侶で、小原が不敬事件で事情聴取されたさいの供述内容に驚いた木戸幸一が問いただすと、王は「大体事実」とあっさり認めた。木戸は後に稔彦王待望論が高まっても一貫して否定的態度を取り続けたが、それは稔彦王が首相になったら取り巻きが日本を牛耳ると恐れたからである。
では、こうした木戸の危惧は根拠があったのか? おおいにあったというのが著者の見解である。それは終戦で東久邇内閣が誕生した際に明らかになる。定見というものを持たない王は取り巻きの意見にすぐに影響されたり、参与に大佛次郎や児玉誉士夫といった予想外の人物を雇ったりした。さらに苦境に追い込まれると他に責任転嫁する傾向が強かったが、いずれも昨今の日本の首相を連想せずにはいない性格である。
ポピュリスト型の無責任政治家の原型は東久邇宮として昭和前期にすでに出現しており、国家危機には周囲から待望論が起こって指導者に祭りあげられるという構図も同じなのである。歴史に学ぶために必読の一冊。
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