古い街区に残る記憶、アウシュビッツ
パリでは十九世紀半ばのセーヌ県知事オスマンによる大改造以後、建物はあまり変わっていない。ポーランド系ユダヤ移民の末裔(まつえい)としてパリに生まれたドキュメンタリー映画監督である著者はこうしたパリの建物の特徴に着想を得て、集合住宅のミクロストリアを構想するが、あるとき一九四二年から強制収容所に送られた子供たちの分布を赤丸で示すパリ地図をネットで発見し強く反応する。自身がアウシュビッツを生き抜いた子供を親にもっていたからだ。そして、赤丸の多いパリ東北部の民衆街区を歩きまわったあげく、十区の何の変哲もない建物の中に入ったとたん、ひらめくものを感じる。
ここだ、この中庭、この四棟なのだ。(中略)帰宅すると、赤丸の地図でこの住所に結びついた人名を調べてみた。子供の名前が九つ出てくる。目立たないあの通りと、やはり目立たないあの建物に、再び思いをはせた。パリ十区、サン=モール通り二〇九番地。
では、この建物と子供たちの名前からミクロストリアを立ち上げるには何が必要だろうか?調べてみると、一九二六年以降、建物ごとに行われた住民調査がパリ市立古文書館に保存され、住民の姓名、出身地、国籍、家族の成員、職業が記録されていることがわかった。
二十一世紀にパリの古文書館の屋内で、名簿から群衆が溢れ出てくる。
赤丸のあった子供のリストと調査簿を突き合わせてインターネットで検索をかけると、一九四二年七月十六日に起こったユダヤ人一斉検挙事件を逃れた子供の名前シャルル・ゼルヴェールが浮上する。電話で面会の約束を取り、オルレアンで出会う。
シャルルは父母と三人で十二平米の部屋に暮らしていたときの思い出から語り始め、二〇九番地での青少年期を細部まで正確に思い出す。著者はシャルルが口に出した「澱」という言葉を手掛かりに、ユダヤ人一斉検挙事件の詳細について聞き出そうとする。生後十八カ月だったシャルルは一斉検挙の夜、サン=モール通り二〇九番地を両親とともに脱出し、その後、両親と別れてだれかに匿われ、解放と同時に迎えにきた両親とともに同じ建物の同じ部屋でまた暮らし始めたのだった。しかし、両親は別居の理由を口にせず、シャルルも忘れ去ったが、何かが澱のように保持されていると感じていた。一〇歳のある日、窓際の小さなベッドで白昼夢を見て、母親に尋ねた。
『ねえ、前にね、僕がベッドにいて誰かがドアをノックしたとき、お母さんは開けなかったでしょ』。母はやや当惑していました。母にとっては何かはっきりしたことを意味していたからです。(中略)実は、こうしたイメージや光景はすべて一斉検挙の際に起きたことと一致していたのです。
別離の記憶はトラウマとしてシャルルに強く残ったのである。
シャルルがオデット・コズーフ(旧姓・ディアマン)の名を挙げたので、著者は、ポーランド系移民の大家族ディアマン家の末娘で両親と二人の姉が逮捕されながら生き延び、いまではイスラエルに暮らす八十五歳のオデットに電話をかける。オデットは驚くべき記憶力で二〇九番地に住んでいた住民と建物の細部を再現する。オデットの証言から探索の糸は広がり、網目となって二〇九番地住民の過去を明らかにしていく。
となると、気になってくるのが建物そのものの歴史である。そこで著者は一九九〇年代終わりにフランスにやってきて二〇九番地の建物の管理人となっているモアメドに情報を求める。一九七〇年から建物の劣化が進んだが、借家人の多くは移民や高齢者で安い家賃しか払っていなかったので、家主たちは改修を施さず、建物は劣化するのに任された。一九九〇年代末、所有者が不動産業者に建物を売却すると、業者は空いている区画から分譲を始める。これに応じたのが多少の蓄えのあった人たちで、彼らの多くはフランス人らしく自分で改装工事に乗り出す。つまりパリ東部で顕著な建物の高級住宅化が始まったのだが、ではいったい、この建物を建てた最初の所有者は誰なのだろう?この疑問を抱いた著者は一八五一年に建物を購入した人物の末裔を捜し出し、さらに古文書館の資料からそれ以前の売買記録まで発掘して、建物の起源に迫る。
その一方、アウシュビッツ生存者の探索は続けられ、オーストラリアやアメリカに移住している生存者のインタビューが行われる。こうして一九四二年七月十六日のユダヤ人一斉検挙事件の当夜に二〇九番地のユダヤ人家庭を襲ったそれぞれの悲劇が再現されてゆく。
日本では集合住宅が数十年で消滅して、すべての記憶が消えてしまうので、こうしたミクロストリアは不可能だろう。同名の映画の書籍化だが、インターネットにより可能となった資料探索の過程が歴史好きを唸らせる。
【イベント情報】塩塚秀一郎 × 鹿島茂 対談
『パリ十区サン=モール通り二〇九番地: ある集合住宅の自伝』(作品社)を読む
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