前書き
『職業別 パリ風俗』(白水社)
フランス文学に初めて接したとき、その実態がよく掴めない職業・身分がいくつかあることに気づいた。たとえば代訴人、復習教師、高級娼婦。これらは日本には存在しないため、たとえ説明されたとしてもイメージがみにくい。また、公証人、免許医、年金生活者、乳母といった職業は日本にも近似的な職業・身分が存在する(あるいは存在した)が、日本のそれとは微妙に違っているように感じた。ただ別にこれらの職業のことがわからなくても、ストーリー自体を追うことは可能で、違和感や疑問は宙づりにしたまま小説を読み進めることはできる。
普通の読者なら、これでいいかもしれない。しかし、フランス語の語学教師になって学生相手に『ペール・ゴリオ』や『レ・ミゼラブル』の訳読を試みる段になると、そうはいかなくなったのである。
「代訴人と弁護士はどう違うんですか?」「高級娼婦というからには低級娼婦というものがあるんですか?」「ゴリオ爺さんは年金生活者って訳されていますけど、その年金っていうのは日本の自営業者の国民年金みたいなものなんですか?」
こういう質問を受けたとき、あるいはそうした種の質問を想定してテクストの予習を進めているとき、自分はフランスの社会について何も知らないし、またそれと深く関係している各種の職業にまったく無知であるとあらためて気づいた。そう、わかっているつもりになっていたが、その実、何一つ正確なことは知らなかったのである。
かくてはならじと職業について調べ始めたが、やがて一つの真実が明らかになった。あたりまえのことだが、職業は金銭と深く結びつき、社会そのものと密接な関係にあるという事実だ。つまり、人はどんな社会でも実入りのよい職業に就きたがり、いったんその職業に就いたら子供にあとを継がせたがるし、同時に他人の参入を防ごうとするから、必然的にギルド化が起こり、社会そのものと切っても切れない関係に入るということだ。
ここから、ある社会にどのような職業が存在しているのかを調べれば、その社会がどのように構造化されているかがわかるという確信が生まれた。
このような「職業を知れば社会がわかる」あるいは「職業を知らないと社会もわからない」という思いは、藤原書店が刊行した「バルザック《人間喜劇》セレクション」の第一回配本として『ペール・ゴリオ』の翻訳を一九九五年頃から始めたときにいよいよ明らかになった。はっきりいうと、職業の細部や金銭の出入りについて知らないとテクストの正確な解釈は不可能だし、訳文も明快にならないということなのである。
だが、幸いなことに、『ペール・ゴリオ』の翻訳を進めていたこの時期、私には強い味方があった。それは一九八四年から翌年にかけて在外研修でパリに滞在していたときに収集した古書の中に、『フランス人の自画像』『パリあるいは百と一の書』『パリの悪魔』『大都会、新タブロー・ド・パリ』といった一八三〇年代から一八四〇年代にかけて大流行した大部の風俗観察集が混じっていたことだった。これらの風俗観察集は職業・身分を社会の解読格子と見なし、職業的秘密を読者のために開示することで社会の構造を示すという態度で書かれている。翻訳を進めるために不可欠な知識を仕込むのにこれ以上に便利なものはなかった。
だが、それでもわからないことがあった。代訴人や公証人、あるいは免許医になるにはどのような資格があればいいのか、また、どのくらいの研修・見習い期間が必要なのか、あるいは収入はどの程度なのかといった細部がいまひとつ明らかではなかったのである。
しかし、この問題も『実用生活事典』という古書のおかげでほぼ解決がついた。つまり、職業の細部についての具体的な数字がこの事典にはしっかりと記されていたのである。入手したときには、こんな本が役に立つのかなあと思ったが、手に入れておいて本当によかった。これだけ有用な本はまたとなかったからである。
そんなとき、タイミングよく白水社の雑誌『ふらんす』から連載のオファーがあったので、翻訳中の「調べる情熱」をそのまま研究的エッセーに振り向けることができた。翻訳的な好奇心がエッセー的好奇心へと横滑りしたのである。この意味で、本書はまことに幸福な書物であるといわざるをえない。
それかあらぬか、文体もかなり上機嫌である。
この上機嫌さは同時に「自分はいま絶対に人の役に立つ本を書いているぞ」という確信からも来ている。自分のための努力が「世のため、人のため」にもなるというのが理想であるからだ。
もの書きというのは本来的にエゴイストで、自分のためにしか書かないと思われているが、実際にはこうした利他性によって鼓舞されない限り、筆は先には進まないものなのである。
普通の読者なら、これでいいかもしれない。しかし、フランス語の語学教師になって学生相手に『ペール・ゴリオ』や『レ・ミゼラブル』の訳読を試みる段になると、そうはいかなくなったのである。
「代訴人と弁護士はどう違うんですか?」「高級娼婦というからには低級娼婦というものがあるんですか?」「ゴリオ爺さんは年金生活者って訳されていますけど、その年金っていうのは日本の自営業者の国民年金みたいなものなんですか?」
こういう質問を受けたとき、あるいはそうした種の質問を想定してテクストの予習を進めているとき、自分はフランスの社会について何も知らないし、またそれと深く関係している各種の職業にまったく無知であるとあらためて気づいた。そう、わかっているつもりになっていたが、その実、何一つ正確なことは知らなかったのである。
かくてはならじと職業について調べ始めたが、やがて一つの真実が明らかになった。あたりまえのことだが、職業は金銭と深く結びつき、社会そのものと密接な関係にあるという事実だ。つまり、人はどんな社会でも実入りのよい職業に就きたがり、いったんその職業に就いたら子供にあとを継がせたがるし、同時に他人の参入を防ごうとするから、必然的にギルド化が起こり、社会そのものと切っても切れない関係に入るということだ。
ここから、ある社会にどのような職業が存在しているのかを調べれば、その社会がどのように構造化されているかがわかるという確信が生まれた。
このような「職業を知れば社会がわかる」あるいは「職業を知らないと社会もわからない」という思いは、藤原書店が刊行した「バルザック《人間喜劇》セレクション」の第一回配本として『ペール・ゴリオ』の翻訳を一九九五年頃から始めたときにいよいよ明らかになった。はっきりいうと、職業の細部や金銭の出入りについて知らないとテクストの正確な解釈は不可能だし、訳文も明快にならないということなのである。
だが、幸いなことに、『ペール・ゴリオ』の翻訳を進めていたこの時期、私には強い味方があった。それは一九八四年から翌年にかけて在外研修でパリに滞在していたときに収集した古書の中に、『フランス人の自画像』『パリあるいは百と一の書』『パリの悪魔』『大都会、新タブロー・ド・パリ』といった一八三〇年代から一八四〇年代にかけて大流行した大部の風俗観察集が混じっていたことだった。これらの風俗観察集は職業・身分を社会の解読格子と見なし、職業的秘密を読者のために開示することで社会の構造を示すという態度で書かれている。翻訳を進めるために不可欠な知識を仕込むのにこれ以上に便利なものはなかった。
だが、それでもわからないことがあった。代訴人や公証人、あるいは免許医になるにはどのような資格があればいいのか、また、どのくらいの研修・見習い期間が必要なのか、あるいは収入はどの程度なのかといった細部がいまひとつ明らかではなかったのである。
しかし、この問題も『実用生活事典』という古書のおかげでほぼ解決がついた。つまり、職業の細部についての具体的な数字がこの事典にはしっかりと記されていたのである。入手したときには、こんな本が役に立つのかなあと思ったが、手に入れておいて本当によかった。これだけ有用な本はまたとなかったからである。
そんなとき、タイミングよく白水社の雑誌『ふらんす』から連載のオファーがあったので、翻訳中の「調べる情熱」をそのまま研究的エッセーに振り向けることができた。翻訳的な好奇心がエッセー的好奇心へと横滑りしたのである。この意味で、本書はまことに幸福な書物であるといわざるをえない。
それかあらぬか、文体もかなり上機嫌である。
この上機嫌さは同時に「自分はいま絶対に人の役に立つ本を書いているぞ」という確信からも来ている。自分のための努力が「世のため、人のため」にもなるというのが理想であるからだ。
もの書きというのは本来的にエゴイストで、自分のためにしか書かないと思われているが、実際にはこうした利他性によって鼓舞されない限り、筆は先には進まないものなのである。
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