すべてが腐り、溶解し、崩れていく世界の物語
『黄泥街』は、残雪が中国文学に大いなる新境地を開いた記念碑的小説である。すでに日本で刊行されている二冊の作品集『蒼老たる浮雲』『カッコウが鳴くあの一瞬』に見られる、読む者を激しく引きよせながら、一方ではねつけるあの異様な世界は、まぎれもなくこの処女作から、処女作ならではの気迫と執念と生々しさとともに始まっている。訳者が残雪から直接きいた話によれば、彼女は一九八三年、三十歳の年から約一年の歳月を費やして「黄泥街」を書きあげた。はじめは「現実主義」の手法で書いていたが、途中で限界を感じ、現在見られるような形に改めたという。それまでの中国の小説に支配的であった、というよりも、ほとんどそれ一色であったその既成の枠組みから、あのとらえどころのない奇妙で独特な文体を生みだすにいたるまでには多くの試行錯誤と、なんらかの劇的な飛躍の瞬間があったにちがいない。近年の彼女の短篇「素性の知れないふたり」は、小説を書くことそれ自体についての小説としても読める興味深い一篇であるが、その中に次のような一節がある。
そんな、すでにある存在ではない、新たな発見がなければならないのだ。これ以上何も発見できなければ自分はもう終わりだと、彼は思った。すでにある生活を、彼は日々唾棄していた。何かしら意外な悦びが現れなければ、焦りのあまり死んでしまうだろう。彼は数カ月ぶっつづけに公園のベンチに坐り、夢うつつの中で、必死に、ある強烈な境地を切り開こうとしていた。思惟は瀕死の莵のようになっていた。如姝はその剣が峰で彼の生活に跳び込んできたのだ。
語ることの自由への飽くなき追求であり、それへの耽溺と陶酔でもあるような不思議な欲望の化身、如姝。それとの劇的な出会いがたしかに、残雪にかつてない「強烈な境地」を開かせ、『黄泥街』を書かせたのであろう。それは「あの町はずれ」で存在と非在のあいだに揺れる一本の通りの滅びの物語であるとともに、ありとあらゆる区分と分類と分割の滅び、境界の滅びの物語でもある。そしてなによりも、分けるための言葉の滅びの物語である。
対象を指さすことなく発せられた「王子光」という言葉が引き起こした騒動に始まる数々の事件は、すべて世界の分節にかかわり、境界の劃定にかかわっている。黄泥街で不可能なのは分けることである。そこではひとつの言葉がある物の上に止まったとたん、その物は変質し、腐敗し、溶け、流れ、入れ代わり、拡散し、輪郭と境界を失って、その言葉が指していたはずのものとは別なものになってしまう。王子光は何子光になり、何子光は王子光に、区長は王四麻に、そして王四麻はもちろん区長になる。「悪性膿瘍」を善良な市民のあいだから排除しようとすれば「だれもかれもが疑わしく」なり、「賊」を防ごうと煮えたぎるやかんを仕掛ければ、熱湯は仕掛けた当人を「賊」にし、「スパイ」を防ごうと壁の穴をふさげば、その行為はその行為者をスパイにし、「ごみ捨て場」の設置は街じゅうをごみの山にする。
それにもかかわらず、あるいはだからこそますます、人々は敵と味方を、自己と他者を、中と外を分けるのに熱中する。泥棒を縛り首にしてみんなでその断末魔の苦悶をながめ、「陰謀をめぐらす破壊分子」をつぎつぎに逮捕したのも、ごくつぶしの老人に糞尿を浴びせかけ、卵の殻のように突き殺す。そして分けるために、人々はなによりもまず語る。数知れぬ会議を開き、通達を伝え、「四日も五日もぶっつづけに」しゃべり、「ひとこといわずにはいられない」からしゃべり、「すっきりする」ためにしゃべり、デマを流し、受け売りし、ごまかし、ほのめかし、議論し、弁解し、追従し、あることをないといい、ないことをあるという。
こうした住民たちの饒舌な無為の前で、言葉と物は共に滅び、降りつもる真っ黒な灰の下で、空間と時間のあらゆる区別を失った黄泥街は滅びる。境界という境界を侵され、それ自身も境界であることをやめたこの通りのあとに、なにひとつ名指すことのできない混沌が始まる。そして同時に残雪の、分けることへの徹底的な反逆が始まる。
わたしは前に向かって歩いていく。わたしの足跡が灰の上に長い、湿った列を残す。無意識のように、また、わざとのように。
夢とうつつが、存在と非在が、合理と非合理が、現実と非現実が、人間と動物と植物と昆虫が、わたしとあなたと彼が、なんの境界もなく混沌とまじり合う残雪のあの不思議な世界は、無意識の世界への案内人といわれる緑の蛇に導かれて、『黄泥街』から始まった。
[書き手]近藤直子(中国文学者)