猫とカモメ、種の違いを超えた友情――新型コロナ肺炎で急逝した亡命作家が、分断の時代に遺した名作
猫ってほんとうは、何でもわかっているんじゃないか、と思うことがある。たとえ家に飼っていなくても、道ばたなどで、ふと目が合ってしまってどっきりさせられるようなことは、わりに誰にでもあるんじゃないだろうか。
たとえば、急ぎ足で通る朝の道に必ずいて、「まったく今日もごくろうさんなことで」と言わんばかりに、ちらっとこちらを見るやせた猫。自分が美しいと知っているのか、見つめると見つめ返してくる、片方の目は青、もう片方は緑で、毛並みは真っ白な猫。ある日の夕方、ちょっとミルクをあげて遊んであげたら、以来マンションの同じようないくつものドアを確実に見分け、夕方になると決まってうちに遊びにくるようになった子猫——。
そう、猫たちは、じつは、何でもわかっているのだ。
人間のことばだって、わかっているどころか、ほんとうはあの小さな舌で、しゃべることさえできるのだ!
それを私たちが聞いたことがないのは、猫たちの間に、決して人間の前でしゃべってはならないという賢明なる掟があって、しかもそれが、粛々と守られているから——。少なくとも、この物語『カモメに飛ぶことを教えた猫』の世界では。
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それにしても、おかあさん猫が自分の子といっしょに、子リスやハリネズミを育てた話とか、池でコイに口移しでえさをあげる猫の話などは、本やニュースで見聞きしたことがあるけれど、猫がカモメに、飛ぶことを教えるとは。いったいどういうわけで? どうやって?
舞台はドイツの北、ハンブルク。古くから港を中心に栄え、十四世紀にはハンザ同盟に加盟したという、歴史と伝統ある国際都市だ。世界じゅうの船が出入りし、自由な風が海から吹き抜けるような、緑の輝く街。
そんな街に住む猫たちは、ふつうの猫よりも、いっそう自由を愛し、いっそう誇り高く、しかも他者を尊重して思いやりが深い。主人公ゾルバも、真っ黒な毛糸玉のようだった子猫のころから、独立心旺盛で、やさしかった。成長して大きくふとった今は、どことなく不思議な包容力と、ハードボイルド風のかっこよさも漂わせている。
ある日、彼が日光浴していたところへ、瀕死のカモメが空から落ちてくる。海に流れ出た原油に、羽をやられてしまったのだ。カモメは消え入りそうな声で、ゾルバに三つの願いを託す。わたしはこれから卵を産むけれど、それは決して食べないで。そしてその卵のめんどうを見て、卵をかえして。そしてひなが大きくなったら、飛ぶことを教えてやって。
男の中の男、いや猫の中の猫のゾルバは、面食らいながらも、母親として必死のカモメの訴えを、受けとめる。そうして、港の猫の長老〈大佐〉やその〈秘書〉、百科事典を愛読する〈博士〉
や、船員たちのマスコットで広い海と世の中を知っている〈向かい風〉といった、ユニークな仲間たちとともに、三つの約束を果たそうと奮闘し始める。
物語はテンポよく進んでいく。ユーモラスに、スリリングに、そしてときにはしっとりと。
固い卵を抱き続け、やわらかなひな鳥も食べてしまうことなく、野良猫たちの嘲笑にも毅然として、あくまで母鳥とかわした約束を守り抜こうとするゾルバ。「港の猫の名誉にかけて」、全力で彼を助ける仲間たち。ついに夜空にはばたいたカモメの姿を、宝石キャッツアイそのもののような、透き通った黄色い瞳で見つめ続け、涙をあふれさせる黒猫ゾルバ。
シンプルで楽しい物語の余韻に揺られながら、最後には思わず、この世もなかなか捨てたものではないなと、胸がいっぱいになっている自分に気づく。
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著者ルイス・セプルベダは、ヨーロッパで数々の賞を受け、世界的に人気が出てきた注目の作家だ。日本でも『パタゴニア・エキスプレス』(国書刊行会)、『ラブ・ストーリーを読む老人』(新潮社)と、個性の光る作品が相次いで紹介された。
彼は、一九四九年、南米チリに生まれたが、アジェンデ人民連合政権がピノチェトのクーデターによって倒れた際に、投獄され、およそ二年半の刑務所暮しを余儀なくされたという経験を持つ。その後アムネスティの働きかけで解放された後は、各地を旅してまわり、八〇年からはドイツのハンブルクを拠点に、主にルポなどの仕事を行なっていたそうだ。グリーンピース運動にも参加していたという。
主義主張の違い。文化の違い。種の違い。そうした「異なる者どうし」は、どうしたらともに生きていくことができるのか。「異なる者どうし」は、心を通わせることが可能か。現代を生きる人間に、驕りはないか。人間の希望は、支えは、どこにあるのか―。どの作品からも感じ取ることのできる、そうしたセプルベダの心の声は、彼のあゆんできた道を多少なりとも知ると、いっそう深く、胸に響いてくる。そして、自身の子どもたちのために書かれたというこの『カモメに飛ぶことを教えた猫』も、静かな、けれど力強くあたたかい、同じ声に包まれているのを感じる。
「異なる」からといって排斥するのではなく、「異なる者どうしの愛」こそ尊いという思い。猫たちが最もたよりにした人間は、ことばの力を誰よりも知っている詩人だったこと。「飛ぶことができるのは、心の底からそうしたいと願った者が、全力で挑戦したときだけ」というつぶやき。
寓話の形を借りたこの物語からは、人間が決して軽んじてはならないこと、忘れてはならないこと、心の奥で大切にしなくてはならないことが、わくわくするようなストーリーといっしょに伝わってくる。そしてそれが、不透明で、新たな問題をたくさんはらんでいる現在の地球から、未来を見つめるセプルベダのまっすぐなまなざしのように思われて、新鮮な感銘を覚える。
本作品は、ヨーロッパでは〈八歳から八十八歳までの若者のための小説〉とうたわれ、一九九六年に出版されてからというもの、多くの読者に愛されている。特にイタリアで大きな話題となり、ベストセラーになったほか、映画化も予定されており、挿絵をもとにしたTシャツなども売られているという。
日本でも、猫好きの人や若い人だけでなく、大人といっしょに子どもが、子どもといっしょに大人が、この物語を楽しんでくれたらいいなと思う。近ごろは、子どもの教育についての、大人のモラルについて、考えさせられることが多いが、こうしたお話の世界に入ってのびやかに遊び、そしてちょっぴり考えてみるような子どもと、大人が、ひとりでも増えてくれたらと、願っている。
[書き手]河野万里子(翻訳家)