「その他」の側から世界を見る
「その他の外国文学」とは、最大手のインターネット書店が外国文学のカテゴライズに使っている言葉だ。私もときどき、そのカテゴリのランキングをチェックすることがある。私が訳している韓国文学も「その他」だからだ。だが、同じネット書店で韓国・朝鮮文学は「アジア文学」にも入っている。日本十進分類では、「その他の東洋文学」に分けられる。一方、日本で最も長い歴史を持つ文庫シリーズでは「東洋文学」のジャンルだ。要は、アジアであり東洋であり、中国ではないので「その他」に入ることもある、ということらしい。
「その他」という本書のタイトルはもちろん、あえて逆説的に選ばれている。この用語に抵抗のある方もいるだろうが、現実に「その他」扱いされる言語や文学はあり、そして、どこからが「その他」かというと線引きは曖昧だ。ラテンアメリカ文学はスペイン文学だったり「その他」だったりするし、オランダ系植民者の末裔として南アフリカに生まれ、後にオーストラリアに移ったJ・M・クッツェーが英語で書いた小説は、当然のように英米文学に収まっていることもあれば、くだんの文庫シリーズではアフリカ文学の一つとして「南北ヨーロッパ その他」に入っている。
ここからわかるのは、「その他」の世界は単純ではないということだ。どこに生まれた/何語の話者が/何語で書いたかだけで文学を分けようとしても、必ずはみ出すものがある。
本書に登場する人たちが手がける言語は、ヘブライ語、チベット語、ベンガル語、マヤ語、ノルウェー語、バスク語、タイ語、ポルトガル語、チェコ語と幅広い。そして、マイナー言語かというとそうでもない。ある統計によれば、ベンガル語は世界の話者人口第六位の大言語だし、ポルトガル語は第七位だ。だがどちらも、第二言語として学ぶ学習者の数はぐっと少ないことから、「その他」になる。
ともあれ本書では、日本では相対的になじみが薄いといわれる文学を熱意をもって紹介してきた九人の翻訳者が、その言語との出会いや学習法、翻訳の工夫、独自の発信方法から文学観まで惜しみなく語ってくれている。そして私は、自分も「その他」の苦労を知っている気でいたのだが、本書を読んで考えを改めた。この方々の経験では、辞書がないのは普通。教材がないのも普通。日本で勉強できないので、学べる場を世界で探す。そして翻訳を始めてからも、先達や仲間が少ない。私が韓国語を学びはじめたのは一九八〇年とかなり前だが、少なくとも辞書は複数あったし、学習書もそうだ。とはいえ当時は「何でそんなのやってるの」とずいぶん聞かれたものだが、大ざっぱに言って英語以外はみんなそう言われるのだろう。
それほど世界は英語一強だし、世界文学論は依然としてオリエンタリズムの延長にある。世界をおおう力は不均衡で、言語や文学の世界も真っ平らではない。では翻訳者たちは、そのでこぼこを埋める人なのか? またはでこぼこはそのままにして、ここに道があるよと示してくれる人なのか? 本書を読みながらそれをじっくり考察してみてほしい。
この九人の皆さんも、「何でその言語をやるようになったの」とよく質問されたことだろうが、きっかけは本当に十人十色だ。「翻訳されていなくてほかのひとが読めない、自分だけが原文で読めるような作品を読みたい」と思ったベンガル語の丹羽京子さん。映画祭で初めてバスク人に出会った金子奈美さん。高校でタイの留学生と友達になった福冨渉さん。
また、学びつづけて文芸翻訳に行き着く背景にも必ず「人」がいる。通訳として参加したブックフェアで運命の一冊を見つけ、著者に直接かけあった青木順子さん。サラマーゴのノーベル賞受賞が嬉しくて専門家に手紙を書いた木下眞穂さん。学部生のときからチェコの作家たちと交流があった阿部賢一さん。人が動き、ぶつかり、スピンすることで何かが始まる。それは実際の物理的移動だけでなく、新しい発見といった思考の動きまで含めてだ。吉田栄人さんがマヤ語文法書の間違いを発見していくところを読んでわくわくしたのだが、それに限らずどの人の話にも、謎が解けていくようなスリリングな面白さがある。それはなぜだろうと考えるに、人の行為の意味が理解できたときの心の弾み、言葉の向こう側に人がいるという実感のためではないだろうか。
それにしても、ポルトガル語翻訳者の木下さんがアンゴラやブラジルの文学を翻訳できる理由や、丹羽さんがインドの西ベンガル地方とバングラデシュの双方に目配りしながら翻訳作品を選んでいること、イディッシュ語が専門だった鴨志田聡子さんが苦手なヘブライ語を学ぶことになった経緯などを読むと、それだけで世界史の授業を受けているのと同じだ。同時にそのあたりに、「その他の外国文学」を紹介するときのジレンマの一端があるともいえる。
「マヤ文学とはなにかということを言ってしまうこと自体が、オリエンタリズム的な感じがしますよね」と吉田さんは言う。これは、韓国文学の面白さは何かとたびたび聞かれ、もごもごと答えてきた私にとっても切実な問題だ。理解の幅を狭めてしまう危険は常にあるからだ。一方で、鴨志田さんがイスラエル文学について「未来志向の文学」と語っているのも印象に残る。その国や地域の社会的・歴史的コンテクストと、それを取っ払っても通じる文学としての面白さと。その両者は有機的につながりながら、「その他」の一員でもある日本語文学に問いを投げかけているようだ。
吉田さんが手がけるマヤ語の作家も、金子さんが取り組むバスク語の作家もほとんどがバイリンガルで、自分の作品を自分でスペイン語に訳すそうだ。バスク語もマヤ語もかつては公用語として使うことが禁じられ、その中から蘇った経緯がある。朝鮮半島の言葉も、かつて、もしや消えてしまうのではないかと危惧されたことがあった。世界の歴史の中で、言語が消えることは特に珍しくない。それを思うと、「その他」も揃えておけば多様性が確保されるから良いというのではなく、「その他」の側から世界を見ること自体が重要なのだ。他のことで代替できない体験だから。
冷蔵庫に左右両方から開け閉めできるものがあるように、世界もさまざまな方向から開けることができるはずだ。ただ、複数のドアノブが見えにくいだけなのだ。ここに集まった九人の翻訳者はドアノブを握っている。世界を新たに九方向からひもとくことができると思うだけで、少し息をつく隙間ができたと感じないだろうか? 「マイノリティのひとたち自身が語ることを聞いたり読んだりすることがすごく重要」(金子さん)、「いろいろな物語、世界のとらえ方が増えるのは非常に好ましいこと」(阿部さん)という言葉は心強い。そして、「われわれ読者自身が、オリエンタリズムに陥らない新しい読み方を、彼らの作品の中に見出していかねばならない」(吉田さん)、「タイ文学を翻訳することは、いまの日本で文学の力を残していくことにつながるかもしれない」(福冨さん)というように、一方通行の開け閉めではなく、相互に影響しながら文学の意味を更新していけたら素晴らしい。
今、世界のいたるところで、物語はともすると陰謀論やわかりやすさに傾いていく。その中で正気を保つにはこのような、多数とは違うドアの開け方を身につけていくことしかないのではないか。太古の昔から伝わる知恵も詩心も、今日の困難に抗う生々しい声も、そのドアの中にある。
ところでこの本は、登場メンバーのジェンダーバランスが正確に女性2:男性1になっている。実は目次を見たときも、本書を通読した後も、私にはそれが心地良かった。この心地良さのもとは何なのだろう。決して意図したわけではないだろうにこのバランスになるのは、「その他」のためなのか、そもそも翻訳がそうなのか、あるいは言語なのか、文学なのか。このことも、世界を別の側から開ける新たなドアノブと関係があるのかもしれない。
[書き手]斎藤真理子(さいとう・まりこ)
韓国文学翻訳者。