「いったい誰が笑えましょう」しみじみ
そのカナダ人は「備中(びっちゅう)松山城デス」といった。先日、京都六条の「そのうちカフェ」で、カナダ人夫婦と相席になった。日本の城が好きで全国をまわっているという。どの城が一番良かったか聞いたら、くだんの城(岡山県高梁市)だという。小さな天守が高い山に、一人ぼっちで座る城だ。書題の「孤城 春たり」の孤城の由来である。備中松山藩は五万石。殿様は板倉家。幕末、徳川吉宗の孫・松平定信のさらに孫がこの家に婿養子に入った。板倉勝静(かつきよ)という婿だ。血筋は争えない。この殿様は学問好きで改革を始めた。一人ではできないから山田方谷という天才にやらせた。山田は油商を兼ねる百姓の生まれだが、才徳兼備の学者で、殿様はこの男に藩政をゆだねた。作者の小説は、しばしば天才本人よりもその子どもの視点で描いた時に筆が冴える。本作も方谷の甥(おい)で養子の耕蔵の目線で書かれ、普通人のまなざしで歴史を眺望する安心感があり、なんとも心地よい。
作者は山田方谷・熊田恰(あたか)・浦浜四郎左衛門という小藩の三人を設定する。文では山田が理想者。武では熊田が体現者だ。凡庸なダメ武士の描写からも逃げず、浦浜という凡庸愚直な架空人物も設定している。この小説は幕末明治のダイナミズムを見事に表現できている。この架空人物の補助線が見事に引けたからであろう。当初、武の熊田は、文の山田を「斬ろう」と思っていた。しかし、山田は「借財十万両」の貧乏藩を七年で立て直し「蓄財十万両」の富強藩に変えていく。熊田は公平無私な山田を尊敬していく。山田は撫育方(ぶいくかた)という役所をもうけ、鉄産業をおこし銅鉱山を開発。タバコや紙を作らせ他領に売った。西洋式の銃砲や軍隊まで整えた。そのせいで殿様は幕府の老中にまで出世した。
が、これがまずかった。天才児のせいで、備中松山藩は優れすぎた。浦浜のような学問も武芸もない凡人の武士は居場所を失いはじめる。浦浜は形骸化した御山城(おやまじろ)の番をして禄を貰(もら)う閑職だ。さらに悪いことに、老中になってしまった殿様と藩は幕末の動乱に巻き込まれ、朝敵にされてしまう。となりの岡山藩は大藩だ。天皇の新政府の「錦の御旗(みはた)」を押し立て攻めてきた。熊田は部下多数の命と、玉島という町を戦火から救うため、また殿様を支えきれなかった責任から「誰も恨むな」と言い残して切腹してしまう。備中松山藩は降伏。山城は開城した。浦浜は山城番を四十年間地道に勤めていたが、城が明け渡されると、大手門前の梅の木で首つり死体になっていた。「腹を切ろうとしたが恐ろしくて切れず…」と書き置きがあり、人々は浦浜を嘲(あざけ)ったが、山田がいう。「御山城を守ることに費やした愚直を、いったい誰が笑えましょう」。浦浜は、主家の城をせめて血で汚すまいと刃物を使わず縊(くび)れ死んだのであり、それが彼なりの士道であった。こうして「明治の春」がきた。
以後は、現在まで効率主義の時代だ。学や芸や技で人材登用がなされ、組織では人間が有用無用で扱われ、数値で競争させられる。本来、人間は存在するだけで尊い。江戸の世はユートピアではないが、読後、「人間的居場所のある世界」のことを、もう一度考え直したいと思った。