権謀術策、時代が鮮やかによみがえる
考古学に「被葬者論」がある。墳墓に葬られた人は誰か?を推論する。日本の古墳は被葬者特定が難しい。中世以前は源頼朝でも墓石に名はない。藤原道長でも墓がはっきりしない。中世以前の日本列島人は死ねば大自然に溶けて輪廻(りんね)し続ける無常の思想である。ところが五百年前に死生観が変わった。死後も戒名を得て個性を保持し、先祖として家・子孫を護り続ける。これが近世以後一般化した。古代の列島人は、死後も自分が何者であったかを主張するのに冷淡。大陸と違い墓誌はない。古事記を編んだ太安万侶などは例外だ。そこで日本史では被葬者論が重要になる。墓は雄弁だ。副葬品は、被葬者の生前の生き様を如実に語る。特に古墳・飛鳥時代は史料が極端に少ない。古墳の被葬者が推定できれば、わかることが多い。しかし、本書の帯に「タブー視されてきた飛鳥古墳の被葬者論に挑む!」とあるように、多くの考古学者は被葬者推定に慎重だ。誰の古墳か?と質問されると、「その地域の首長墓」とだけ答えてきた。古墳から墓誌は出土しないのに「墓誌が出ないとわからない」と答える場合もあった。ずるいと感じる人もいるだろう。ただ、考古学者を責めるわけにはいかない。日本で被葬者を論じるには五つの難があるのだ。
第一、多湿で酸性土が多い日本では古墳の遺体の多くは分解されて消えている。「透明人間の墓」だ。手がかりが少ない。第二、大陸より文字史料が少ない。墓誌はない。金属や石などに刻まれた文字が少ない。古事記・日本書紀(記紀)が参考になるが十分ではない。第三、考古学の最新科学の調査が、被葬者を論じれば、天皇陵の治定の誤りを暴くのが避けられず、ややこしい問題をはらむ。第四、被葬者を論じる研究には、考古学だけでなく、記紀・万葉集などを解釈する文献史学の専門的素養も必要である。第五、被葬者は確定できない場合が多い。大抵、推定にとどまる。他の研究者から異論や批判が出るのが必至だ。
本書の著者は、この五つの難を乗り越え、被葬者論の代表的研究者となったのだから敬服するほかない。米寿を迎えるにあたり、一般向けの集大成を上梓(じょうし)された。研究で批判されたくない。そういう小心な研究者は多い。しかし著者は違う。「2世紀に及ぶ陵墓治定の検証結果を否定するものではない」が、それぞれの立場で古墳の被葬者を議論するのが重要という立場で果敢に難題に挑んだ。
本書を読めば、現代考古学は、こんなにも精密に飛鳥時代の歴史像をとらえていたのか、という感想にいたる筈(はず)だ。著者が被葬者論から逃げずに構想した飛鳥時代像は、次のようになる。6世紀後半、蘇我稲目(いなめ)が台頭する。稲目は都塚古墳に葬られるが、蘇我式の古墳は古い高句麗式の方墳や寺院建築の基壇の影響をうけていた。段築といって階段状の巨大な方墳、巨大な横穴式石室、豪華な家形石棺三つが特徴だ。
元来、蘇我氏は新興で地位が低い。巨大方墳で権威を示したのだ。新興臣下の蘇我氏は娘が天皇の宮殿に入っても皇后の下の妃にしかなれない。そこで蘇我馬子は考えた。欽明天皇陵を改装し、丸山古墳という天皇陵最後の前方後円墳を作り、蘇我の娘を皇后よろしく合葬した。しかも、蘇我の娘の石棺を中央におき、欽明天皇の石棺を脇にした。この妃が産んだ皇女が推古天皇だ。母が皇后待遇になり、すんなり即位できた面もあるだろう。うならされた。馬子は超巨大方墳の石舞台古墳に葬られ、蘇我氏の方墳の巨大化は進んだ。著者は2015年の調査で確認された小山田古墳が馬子の子・蝦夷の古墳とする。この古墳の土には離れた豊浦寺の瓦が混入していた。厩戸皇子家の家人がみせしめでこの寺からの土運びに動員された痕跡かもしれないという。ところが、この古墳は使われなかった。蝦夷とその子・入鹿は、乙巳(いっし)の変(大化の改新)で自害・殺害されたからだ。二人の遺体は精巧な家形石棺に納められ、菖蒲池古墳に合葬されたという。
女性皇族の発想力がすごい。「天皇は推古天皇以来、蘇我氏の傀儡(かいらい)政権」で、天皇皇族の陵墓も「蘇我家の家風にそった方墳」になっていたが、蘇我氏が天皇陵をしのぐ巨大墳を作り、天皇にしか許されない舞や雨ごいをし始めた。天皇皇族側は危機感を募らせたらしい。舒明天皇の皇后・宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)が新しい墳形を試した。八角形墳である。天子を表す八角形の古墳だ。また斉明天皇は大石をくり抜き、なかに台をおいて、漆の棺をおく新しい埋葬様式をはじめた。天皇陵の「蘇我離れ」が始まり、直後に蘇我氏も滅んだというのだ。
天智天皇や藤原鎌足、天武・持統天皇の古墳はほぼ確定している。藤原鎌足の墓は大阪府高槻市の阿武山古墳。さすが策謀家。盛り土のない地下に埋め込んだ墓で暴かれにくかった。しかし京大地震研が地震計設置工事で発見。遺体写真が撮られた。鎌足の遺体は京都の山科から高槻まで、遺体が動かぬよう「プチプチ」のように棺に植物根を詰めて運ばれたことまで判明している。本書によって、日本古代が謎ではなく、驚くほど色彩のある映えた像としてみえた。