和同開珎は日本最古の貨幣なのか
今から二年前の正月(ALL REVIEWS事務局注:1999年)、奈良県の飛鳥池遺跡から出土した富本銭について、新聞は大々的に報じた。これで貨幣の歴史の記述は塗り替えられるということから、大きな話題となったものである。しかしその後にも考古学の新発見の発掘は続き、次々に歴史は塗り替えられるという報道があった末、やがて昨年には捏造問題さえ起きることになった。発掘の成果の十分な検証がなされぬままでの報道、保存問題や資金補助問題が絡む発掘のあり方が今、問われているといえよう。
そうしたなかにあっても富本銭に関する研究は地道に続けられてきていたことを本書はよく物語っている。これまでの通説が、古代国家は和同開珎に始まる皇朝十二銭を発行してきたとするのに対し、それ以前にも富本銭を発行していたばかりか、さらに文字の記されていない銀銭(無文銀銭)が広く流通していたと著者は主張する。
その根拠となるのは飛鳥池の富本銭の発掘という事実であり、各地で発掘されている無文銀銭の存在であった。そこから『日本書紀』天武十二年(六八三)四月十五日条に「今より以後、必ず銅銭を用い、銀銭を用いることなかれ」とある詔(みことのり)の記事に見える銅銭を富本銭、銀銭を無文銀銭と考えたのである。
以前から富本銭も無文銀銭も知られてはいたが、果たして広く流通していた貨幣であったかは疑問視されてきた。しかし飛鳥池の富本銭はその大量の鋳造を物語っており、ここに富本銭の流通が裏付けられたとし、それが和同開珎発行以前にさかのぼることから、無文銀銭の存在もまた浮かび上がってきて、『日本書紀』の記事が改めて俎上に上り、先のような主張となったのである。
さらにその主張に基づいて、著者は無文銀銭から皇朝十二銭までの古代国家の貨幣政策の変遷を究明し、一貫して銅銭の流通を狙っていた国家の貨幣プログラムを見出だしている。
武蔵の秩父から銅が産出されて和銅元年(七〇八)と改元されたのにどうして和同開珎と名づけられ、また銀銭としてまず登場したのか、和同開珎は「わどうかいちん」と読むべきかどうか、銀銭と銅銭の換算比率はどうだったのか、こうした様々な疑問に答え、それに明快な答えを提出している。
モノの発掘を通じて、改めて歴史の文献を読み直し、そこに新たな問題の提起をする、という考古学と歴史学とのドッキングによる歴史の解明を実践する試みとして高く評価されよう。
ともすればそれぞれの学問領域では自分に都合のいい部分だけをつまみ食いの形で利用してきたのであるが、もはや自分の学問領域にのみ通じる議論では許されない。
今後、今村説の検証が様々に行われることであろう。富本銭の発行を早くに天武十二年の詔と結びつけた説を提起した、飛鳥池発掘を担当した松村恵司氏も今村説に全面的に賛成ではないというし、富本銭はその銭の「富本」という文字や七星の図からしても、呪い用の銭(厭勝銭(ようしょうせん))であるという見解も根強い。
富本銭の存在を天武十二年の詔と結びつけるのもまだ不確定である。天武十二年に発行されたのは別の銅銭かもしれない。たとえば中世になって物事の始まりを集めた『濫觴抄(らんしょうしょう)』という書物には「銅銭」という項目に天武十二年のこととして「銀銭を停め、銅銭(則天弘通)を用いよ」と見える。『日本書紀』の記事の性格を究明する作業もまだまだ残っている。
しかし富本銭を離れても、今村説が提起した問題は大きい。銀銭が天武十二年以前から流通していたことの意味は十分に受け止めてゆかねばならないであろう。
銀銭の流通の実態を探るためにも、古代国家に長年にわたって銀を供給してきた対馬の銀山を掘りたい、と著者は希望を述べている。対馬が銀を献上したのは天武三年のことであった。希望をかなえさせてあげたいものだ。