書評
『ペリー来航』(吉川弘文館)
日米とも今とあまり変わらない外交
今日の日米関係の発端となったのはいうまでもなくペリーの来航である。今から百五十年前の五月二十六日(日本暦四月二十日)に那覇を訪れたペリー一行は、サスケハナ以下四隻の艦隊を率いて七月八日(日本暦六月三日)に三浦半島の浦賀沖に投錨(とうびょう)した。驚いたのは警戒にあたっていた浦賀奉行所である。退去命令を発し、長崎が唯一の対外交渉地であるとして回航するように要求したが、わざわざ江戸に近いこの地を選んだのだとして拒否され、国書を手交するに足る政府高官との面会を要求された。
こうして始まった日米外交を江戸幕府(著者は徳川公儀と称している)がいかに展開していったのか、その前提にはどのような国際認識があったのか、いっぽうペリーをはじめとする欧米側の人々はどのように交渉をもとうとしていたのか、といった基本的な問題を探ったのが本書である。
もともとは「開国」というテーマで書き進められたものらしく、広く江戸幕府の外交過程や外交政策に関する全般的な検討がなされており、前半でのペリー来航以前の外交政策や国際認識についての指摘がことに興味深い。
今ではよく知られているが、鎖国という語は、ケンペルの『日本誌』を翻訳した志筑忠雄の『鎖国論』に基づくものである。だが実はこの鎖国の用語が十九世紀初頭にはじめて生まれたように、十七世紀の「鎖国」と十九世紀のそれは内容が違っていた。前者は日本人の出入国を主に問題にしており、外国船の入国禁令はスペイン・ポルトガル・イギリスに限られていたのだが、後者になると禁令は異国船一般に拡張され、焦点は外国人の入国の可否に移っていったという。
その転換を促したのが十八世紀末の老中の松平定信であったとして、その外交政策の吟味からはじめる。海外からの情報を求めつつも「鎖国」への閉塞性を選択していった幕府の動きと、海外からの情報を受けて、新たな主張や行動をとる知識人の動きとを明らかにしてゆく。
そうした動きがあったからこそ、後に「鎖国」から「開国」へと劇的に政策転換が図られたのであると著者は強調する。
攘夷から開国への転換を、その場、その時の情勢の変化に単に追随したものと見るのではなく、広く思考の実験と論争の経験から、予(あらかじ)め対策が蓄積されていたと、説得的に指摘している。
後半のペリーの来航やロシアの動きなどについては、最近の研究成果に学びながら、それぞれに外交を担った当事者の考えに沿いつつ、交渉過程を明らかにしてゆく。
アメリカの日本開国計画は、中国の開港地の増加と太平洋岸の領土化を背景にした熱狂的な膨張主義の雰囲気の中で生まれた。その膨張は「明白な神意」であるという信念に支えられており、太平洋岸での商業活動への期待とともに、太平洋航路における石炭の補給地として日本はその視界にあらわれたとする。
その交渉過程の実際は、言語が直接に通じないなかでのこともあって困難をきわめ、とくに日米和親条約では下田に領事を進駐させるかどうかで英語版と漢文和訳版との間に齟齬(そご)が生じたこともあった。
そのために後者では、日本は領事の駐在を拒否できることになり、それは外国との「通信」関係を認めなかった幕府の態度を貫いたものとなっているのだが、前者ではそうではなかったという。この付近、英文の条約文を提示してほしかった。
こうして交渉では通信(国交)や通商(貿易)を認めるかどうかで応酬が繰りかえされた末、ついに幕府は日米和親条約を経て、日米修交通商条約によって通信・通商を是認して積極的な開国策へと転換していったが、本書はその事情を詳しく語り、問題点を探っている。
この交渉過程を見ると、アメリカの黒船外交が成功したのは、江戸湾にやってきて将軍の膝元を狙ったことが大きかったように私には思われた。そこで幕府高官は江戸に近い横浜の開港を認めたため、京都に近い大坂と兵庫の開市と開港をも認めてしまったのであろう。
しかしそのために朝廷が反発し、ここから尊王攘夷運動が盛り上がり、やがて倒幕へとつながることにもなったのではないか。ではもし最初に大阪湾に入っていったらどうなったのか、そんなことも考えさせられた。
本書はほかにもペリーの白旗問題や不平等条約の問題にも触れるなど、よく問題が整理されていて、新知見も多い書物に仕上がっている。
日本の外交のあり方やアメリカの外交のやり方がこのときからあまり変わっていないことが実感させられるなど、まことに知的で刺激に満ちた本となっている。
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