書評
『大久保利通と東アジア: 国家構想と外交戦略』(吉川弘文館)
近代的外交 柔軟に築く
大久保利通は西郷隆盛たちとともに「維新三傑」の一人として挙げられる。しかし、彼の業績を簡潔に説明することは難しい。鹿児島において大久保の業績の多くは「西郷に付随するもの」であるかのごとく記されていることもある。本書は大久保利通を中心とした明治政府の初期外交の歩みをまとめたものである。日本はペリー来航以降、押し寄せる外交問題の数々を、消極的な表現をするならば、その場しのぎで対応することが多かった。それに対し、大久保は対外戦争を引き起こさないことを主眼としながら、各地の問題を順序立てて対応していったのである。対外戦争も他国の植民地化も目指さず、国境・国民の内外の線引きを行い、富国強兵を主導するものであったと著者は述べる。
さらに、国と国との関係も近代的なものを目指していたという。「華夷(かい)秩序」という、古代から東アジアで続く上下関係ありきの国交から脱却し、西欧近代国際法にのっとった法で結ばれた対等な関係だ。一方で、千年以上続くこの外交システムを強引に改変するには戦争というリスクが生じやすい。そこで、大久保は時に柔軟な対応をとりながら、東アジア諸国と新たな外交関係を樹立したことを著者は明らかにしている。東アジア圏内において、東アジアの外交基軸であった「華夷思想」の後退の第一歩は大久保の手によるものと言って過言ではないだろう。
大久保の国際感覚は、岩倉使節団での渡欧によるものか、父が鹿児島城下の琉球館で勤めていたからなのか、はたまた海洋国家・薩摩という土壌に恵まれたからなのか。明治初期の大久保の外交政策を考えると、富国強兵を実践し、日本南方の琉球のみならず、北方の蝦夷(えぞ)地の経営まで提唱していた薩摩藩主・島津斉彬の面影が浮かんでくる。世界各国と並び立ちながら、強く豊かな国を築く。斉彬が描いた夢を、明治政府という舞台で受け継いだ人物が大久保利通であった、と私は考える。
[書き手] 岩川 拓夫(いわかわ たくお・仙巌園学芸員)
初出メディア

南日本新聞 2016年2月28日
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